そこら中で証明されるアンチワーク哲学【アンチワーク哲学】
この前、不思議な飲み屋に入った。
扉を開けてすぐに視界に入ったテーブルでは、客がキャッキャっと小麦粉に塗れながら餃子の皮を作っている。カウンターでは、また別の客が餃子を包んでいる。客全員が協力しながら餃子をつくっているらしい。
席に案内されることもなく、好きなところに陣取る。そして、ビールを取り出してとりあえず乾杯した。ドリンクは冷蔵庫から勝手に取って飲むスタイルだ。
飲みながら僕は連れと雑談をしているのだが、なんだか居心地が悪くなってくる。ほかの客たちは餃子をつくっているのに、自分たちだけ手持無沙汰であるように感じたのだ。いてもたってもいられなくなり僕たちは「手伝わせてもらってもいいですか?」と声をかけ、餃子の皮づくりをやりはじめた。
客が料理をつくり、客がドリンクを注ぐ。料金は時間制。ついでに言えば、店の営業時間は店主の気分次第。店主の「働きたくない」という思想を突き詰めた結果、こういうお店の設計になったらしい。
よくよく考えれば不思議な話である。そんな店が成立してしまっているのだから。
飲食店とは、ドリンクを注いだり、料理をつくったりするサービスを提供し、その対価としてお金を払うシステムであるはずだ。その前提には、「人間はドリンクを注ぎたくないし、料理をつくりたくない(だから客として金を払って店員にやらせる)」という発想が存在している。
なら、「なぜ客である俺たちが餃子をつくらねばならないのだ?」といったクレームが噴出し、とっくに店が潰れていなければおかしいのである。
しかし、なぜかそうはなっていない。むしろ、客たちは楽しそうに餃子をつくり、「うまいうまい」と自分たちでつくった餃子を食べ、なんの不満もなくに料金を払って帰っていく。しかも一人や二人の変わり者だけがそうなるわけではなく、全員が満足げなのだ。むしろ、一般的な居酒屋で食事を楽しむときよりも、より大きな満足感を感じているように見える。
そうなってくるともう、この社会に存在している「客はドリンクを注ぎたくないし、料理をつくりたくない」という前提が間違っているのではないかと勘繰らずにはいられない。人間は、自分の意志で誰かに貢献し、役に立つことを欲しているのではないか、と。
これこそがまさしくアンチワーク哲学が提唱した概念である貢献欲が発揮されている場面である。
もちろん、店主の方はといえば、「働きたくない」と言っているし、客に多くの工程をゆだねている。彼は、もともと一般的な飲食店を運営していたらしい。その中で「働きたくない」という想いが芽生え、その想いに従って店舗を設計した結果、いまの状況に至ったらしい。とはいえ、彼もまったくなにもしないわけではない。餃子の仕上げ作業や準備工程の大半は依然として店主の役目である。しかしどうにも「あー、こんなことやりたくないのになぁ」などという感情を抱いているわけではなさそうだ。むしろ、店主の方も楽しそうに店を切り盛りしているのである。
なら、彼が嫌がっていたのは、否応にも時間通りに店を開けて、接客し、調理し、ドリンクを注がなければならないという強制だったのではないか? 決して、彼の言葉でいう働くことそのものが嫌だったわけではないのではないか?
人は食欲を持ち、食事を欲する。しかし、朝から晩まで強制的に食わせ続けられる生活が続くなら、食事が嫌いになるだろう。だからといって人間は本質的に食事を嫌う生き物であるだなんて考えはバカげている。それと同じである。彼は朝から晩まで強制的に客に貢献することが嫌なだけであり、人間は本質的に貢献を嫌う生き物であるだなんて考えもバカげている。
それを裏付けるように、客たちは自発的な貢献に喜びを感じている。ここで生じている事態は「人間は貢献欲を持つ」というアンチワーク哲学の主張を根拠づけているのだ。
このお店では、誰も労働していない。しかし、食事を提供するという価値は提供されている。その過程は、誰にとっても喜びに満ちたものである。言い換えれば、ここは簡易領域としての「労働なき世界」なのである。
僕がやりたいことは、この「労働なき世界」を社会全体にいきわたらせることである。それは決して不可能ではないと思っている。そのために必要なのがアンチワーク哲学なのだ。
「客はドリンクを注ぎたくないし、料理をつくりたくないわけではない」ことは、すでにほぼ裏付けられている。なら「人は道路工事をしたくないわけではないし、農作業をしたくないわけでもない。老人のオムツを替えたくないわけでもないし、冷蔵庫をつくりたくないわけでもない」と考えてもさほど突飛な発想ではないのではないか? この発想を拡大して適用していくだけで、世界中の労働を、自発的な貢献に置き換えることができるのではないか?
むしろ労働という形で強制することは、実は非効率なのではないか? 過労死するまで居酒屋チェーンで働く人々や、ワンオペのブラックバイトで消耗している人々は、依然として存在している。しかし、そうした貢献を強制せずともほかの人々で分け合えば、店員の苦しみが軽減されるだけではなく、客のほうにも満足感があるのだ。
ならば、労働による強制が、あるいはお金による強制が、人々を無意味に苦しめているという結論は妥当だろう。僕たちは金のために労働しなければ路頭に迷うか、サーカスの輪を潜り抜けるように生活保護を受給したうえで、人々からの誹りやケースワーカーのマイクロマネジメントを甘んじて享受しなければならない。そのような事態を避けるために、言い換えれば人として尊厳を保ったまま生きるために、僕たちは労働を余儀なくされる。
金の心配さえなければ、労働は強制されない。そのとき人は、手持無沙汰で居心地が悪くなった僕たちのように、なにか人に貢献せずにはいられなくなるのである。
「貢献しない人が、差別されるのでは?」という疑問は、貢献欲をベースにした社会を目指すアンチワーク哲学に対して頻繁に寄せられる疑問である。しかし、餃子づくりの場面を見ればそれは杞憂であることがわかるだろう。僕以外の客たちは、餃子づくりに熱中していて、手持無沙汰であった僕たちのことを気にもかけなかった。そして「やらせてください」と言えば「じゃあ・・・せっかくなんで・・・」と、まるで公園でブランコの順番を代わるように、少し名残惜しそうに譲ってくれたのである。自分が楽しんでいるときに「さっさと餃子づくりを変われよ。常識だろ?」などと叱責しようという考えは、ちらりとも思い浮かばないのが普通だろう。貢献欲をベースにした社会は、きっともっと温かい社会に変わっているはずだ。
そして、「俺はこれだけ貢献したんだから、もっと餃子をよこせ」などとは誰も言わないのである。なぜなら、楽しくてやっているのだから。こんな特殊なお店に行かなくても、たとえば友達とBBQをしているとき、ずっと網の前で焼いてばかりいるお節介な奴の一人や二人に、誰しも出会ったことがあるだろう。彼はたいてい焼いてばかりで、ほとんど自分では食おうとはしない。みんなが食っているのを見て満足しているのである。帰り道に「俺ばっかりが焼いてぜんぜん食えなかった」などと愚痴を漏らすことはないのだ(もしそう愚痴る前に、誰かが「お前焼いてばっかやから代わるよ?」と言い出しているはずである。そして、たいていそのお節介な奴は「いやいいよ。俺ちょくちょく焼きながら食ってるから、みんな食べといて~」と返事をするのだ)。
こうした事態にフィットする説明は、ずっとこの社会には存在していなかった。「なんだかお節介な奴がいる」「変わった世話好きの人がいる」という程度である。しかし、多かれ少なかれ人は世話好きであり、お節介なのである。
この前、僕はベビーカーを電車に乗せるのに少しだけてこずってしまった。すると、その様子を見ていた乗客が三人ほど同時に手伝おうと動き始めたのである。その瞬間に僕はベビーカーを乗せられたので、手伝ってもらうには及ばなかったものの、もし僕が上手くやれなかったら、彼らは僕を手伝ってくれたのだ。もちろんそんなことをしても自分には一円の得にもならないし、見ず知らずの僕の好感度を高めたところでなんの見返りもない。
「貢献欲は、友達や家族には発揮されても、見ず知らずの他人同士では上手くいかない」というのも、アンチワーク哲学に対するよくある疑問である。しかし僕は心配いらないと思っている。たまたまお店や電車で居合わせただけの人を僕たちは信頼し、手助けしてしまうのだ。世界の果ての人々と同じことができないと、どうして言えるだろうか。
小さな労働なき世界に出会えた。きっと僕は間違っていないと思う。
むかしむかし、まだ労働がなかったころ
お金も、国家もなく、みんなが好きなように耕し、好きなように家を建て、好きなように道をつくり、好きなように分け合い、好きなように食べ、好きなように歌い、好きなように眠っていた街がありました。
誰かが誰かに命令するようなことはなく、みんなが好きなことだけをやっていました。食べ物も家もみんなにいきわたっていて、みんなが平等で、みんなが自由で、みんなが幸せでした。
あるとき、そこに力の強い乱暴な男が生まれました。
乱暴男は、同じ街の友達に殴りかかるふりをしながらこう言います。
「俺のために小麦をつくれ」
友達はこう言って断りました。
「そんな風に命令しないなら小麦をつくってあげてもいいよ。それに一緒に協力してつくってもいい。でも、その態度を改めないのなら君の言うことはきかないよ」
すると乱暴男は友達に殴りかかってきました。
怪我をした友達は、街の人たちに看病をしてもらいながら、乱暴男に殴られたことを話しました。
すると、みんなは乱暴男に怒り、みんなで横暴男を懲らしめることを決めました。
いくら強くても、団結されれば敵いません。乱暴男はみんなに懲らしめられ、しぶしぶ、これからは誰にも命令しないと約束しました。
ところが乱暴男は、反省しませんでした。
なんとかして自分の命令に従わせるために知恵を絞りました。そこで、「自分を手伝ってくれたら、お前にも略奪品を分けるよ」と仲間を集めて回ることにしました。
仲間を集めた乱暴男は、ふたたび街の人たち命令しました。
「俺たちのために小麦をつくれ」
ひとりなら押さえ込められたのに、仲間をたくさん引き連れていると太刀打ちできません。街の人たちは、仕方なく乱暴男に従いました。そして、毎年毎年、小麦をつくっては乱暴男に献上しなければならなくなりました。
こうして、労働が誕生しました。
そして、これが税のはじまりであり、国家のはじまりでした。乱暴男は世界で最初の王様になりました。
しかし、国民は一人また一人と街から離れていきます。乱暴王の命令に従って労働したくなかったからです。
逃げた人たちは、ほかの街に迎え入れられました。そして「こんな乱暴な男がいたんだ」と話をしました。するとほかの街の人たちはこう言いました。
「それは酷い男だね。でも、この街にはそんな男はいないから安心してほしい。食べ物も家もみんなで分け合ってから心配しないで。労働なんてする必要はないんだよ」
さて、乱暴王はと言えば、次々に逃げ出す国民に頭を悩ませていました。そして思いつきました。
「そうだ。壁をつくらせてみんなを閉じ込めて、労働させよう」
ところが、国民は不満を口にします。
「どうして壁なんかつくる必要があるんだ?」
乱暴王は「お前たちを閉じ込めるため」だなんて口が裂けても言えません。そこでこう言いました。
「国を襲ってくる蛮族からお前たちを守るためだよ」
それでも納得しない国民はたくさんいます。乱暴王は強引に壁つくりの工事を始めさせたものの、逃げ出す国民は増え続けています。
そこで乱暴王は、とある秘策を思いつきました。
「頑張って労働してくれた人には、頑張った分だけ小麦をあげるよ。だから頑張って働いてね」
乱暴王は頭のいい部下に国民の働きを記録させました。そして、それを証書に書き出して、国民に渡しました。
国民はなにも貰えないよりはマシだと思って、しぶしぶ証書を受け取りました。
そこにはこう書かれていました。
「小麦の収穫期にこの証書を持ってきたら、ここに書かれている分だけ小麦を分け与えるよ」
さて、国民は壁をつくるのに忙しくて、自分で食べる分の小麦をつくることができません。ほかの人たちも同じで、誰も小麦をわけてくれません。
かといって乱暴王のところに証書を持っていっても「小麦の収穫期まで待て」と言われて相手にしてくれません。
こうして街はお腹を空かせた人で溢れ返りました。
そんな中、ある人がアイデアを思い付きます。
のちに商人と呼ばれるその人は、証書はあるのに小麦がなくて困っている人から証書を買い取り、乱暴王の代わりに小麦を渡そうと考えました。
渡す小麦は、証書に書かれている量よりも少なく渡します。その後、証書を収穫期まで大切に保管しておけば、渡した量よりもたくさん小麦を乱暴王から受け取ることができます。そして、その小麦でまたたくさんの証書を受け取り、もっとたくさんの小麦を受け取り、もっともっとたくさんの証書を受け取るのです。
こうして商人は証書をたくさん溜め込むようになりました。
一方で国民はどんどん苦しくなりました。小麦を受け取るために、証書を受け取るために、ガムシャラに労働しました。
証書のために、国民はいろんなことをしました。家を売ったり、奥さんや子どもを売り飛ばしたり、泥棒をする人もいました。
気づいたときには証書は、お金と呼ばれていました。こうして世界にお金が誕生しました。
そして、壁は完成しました。乱暴王は壁を「千里の長城」と名付けました。これでいよいよ国民は外に逃げるのがむずかしくなりました。
さて、乱暴王の願いはある程度は叶いました。しかし、壁や道路を維持したり、小麦を取り立てたり、それを計算したり、やることが増えて人手が足りません。
そこで乱暴王は考えました。
「奴隷を捕まえに行こう」
かつて乱暴王のもとから逃げていった人たちが身を寄せる街へ、乱暴王は仲間を連れて略奪をしに行きました。
たくさんの仲間をつくり、国民に武器をつくらせている乱暴王には誰も敵いません。たくさんの人が奴隷として連れ帰られ、壁や道路、小麦をつくらされました。
乱暴王にもはや敵なし。と思いきや、遠くの街で、乱暴王の真似をする人が現れました。
彼は乱暴王と同じことをしていましたが、もう少し国民に優しいフリをしていました。また、自分は神に任命された優しい王であり、国民の敵を倒すために生まれたのだと宣言しました。もちろん、それは小麦や壁をつくらせるための嘘でした。
嘘つき王も、乱暴王も、たくさんの街を征服していき、いつしか二人は出会いました。嘘つき王も、乱暴王も、相手の国民を奪って働かせたい。譲り合うことはなく、戦いになりました。こうして戦争が誕生しました。
しかし、戦争は勝てればいいけれど、負ければ失うものが大きすぎます。それに、勝ったとしても相手の国民を殺したり、国民を働かせる畑が荒れてしまっては本末転倒です。
乱暴王と嘘つき王は何度か戦争をしたあとにそのことに気づきました。そして、「もう、これ以上は戦争しないでおこう」と約束を結びました。こうして、お互いが自分たちの国民を働かせるだけで、満足することに決めたのです。
国民たちは戦争がなくなって喜びました。乱暴王も嘘つき王も、戦争を止めてくれたいい王様だと褒められました。
それでも、国民たちはたくさん労働しなければならないことに変わりません。でも、そのころ国民たちは、それは仕方ないことだと思い始めていました。
もともと小麦をつくるのは楽しい遊びでした。みんなで協力してつくって、みんなで美味しく食べる。それだけで幸せでした。そのときは、誰がどれくらい貢献したかなんて、いちいち記録する必要はなかったのです。
しかし、乱暴男によって命令され、嫌々労働させられ、それをお金で測られるうちに、国民は小麦や家、道路をつくること自体が辛くて大変で嫌な仕事なのだと思い込むようになりました。本当は強制される労働が嫌なだけなのに、人の役に立つことが嫌なことだと思い込んでしまったのです。
だから、国民はお金をもらわないとやりたくないと思うようになりました。
また、お金がなくて苦しんでいる人が泥棒になってしまい、乱暴王はそれを懲らしめる役割も果たしていました。だから、国民は乱暴王が必要な存在だと思い込むようになりました。
乱暴王がいなければ、お金がなければ、誰も小麦や家や道路をつくらず、街は泥棒で溢れかえってしまう。そんな誤解は乱暴王にとって都合のいいものでした。乱暴王が必要であることを、国民は勝手に誤解してくれるようになったのです。
そして、いつしか乱暴王は死に、乱暴王の息子が王様になりました。息子も死に、その次の息子も死に、その次の息子も死にました。
長い時間が経って、王様は政治家と呼ばれるようになり、選挙で選ばれるようになりました。お金が必要であることや、労働が必要なことは、もはや当たり前の常識になりました。王様がただの乱暴者だったことも忘れられ、国家は必要なものだとみんなが思い込むようになりました。そして王様自身も、そう信じてしまったのです。
王様はもう、自分のために国民を働かせることはありません。戦争をなくし、奴隷を解放し、王様がやることは健康保険や年金、教育といった制度まで広まりました。いまでは国民のために王様が働きます。
労働も、お金も、王様のために発明されたということを忘れてしまった王様は、これらを残したまま、国民が幸福になるように試行錯誤します。
でも、うまくいきません。王様も国民も、国民はお金で命令し、労働させなければ、誰も食べ物や家をつくらないと思い込んでいるからです。
大昔はそうではありませんでした。お金も国家も労働もない街の住人は、楽しく自由に誰かに貢献をしていたのです。
でも私たちはそんなことはすっかり忘れてしまいました。お金で労働させようとするせいで、人々が怠け者になってしまっていることに気づけないのです。
そして現代では小麦や道路をつくる労働を行う人はほとんどいなくなりました。かつての商人のようにずる賢く振る舞う人がどんどん増えていて、もはや商人同士の競争でみんなが疲弊するようになりました。それでも、お金を稼ぐために努力しなければ怠けているのだと思い込まれているせいで、商人同士の無意味な競争はなくなりません。むしろ褒めたたえられてしまうのです。
こうして、労働が、国家が、お金が当たり前の世界に、私たちは生きています。
めでたくなし。めでたくなし。
逆に労働を撲滅しないで、どうやって世の中を成り立たせるの?
少子高齢化。環境問題。格差。貧困、いじめ。パワハラ。セクハラ。ブラック企業。医療。犯罪。介護、保育、建築、農業、林業、漁業などエッセンシャルワーカーの人手不足や高齢化。資源の枯渇。
こうした問題は抜本的な解決が図られることなく、常に将来世代に先送りにされてきた。政治家や企業はSDGsのような明らかにやる気のない見せかけの解決策に取り組んでいるフリをし、自分の世代で美味い汁を吸って逃げ切ろうとしている。まさしく「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」といった態度である(彼らが「これからは課題解決能力が大切だ」などと言い始めるのだからお笑い種である。彼らは課題先送り能力しか身につけていないというのに)。
では一般市民の方はと言えば「なんか大変そうやなぁ」とニュースを観て憂いの表情を見せた数分後にはケロッと忘れている。「なんか大変そうやけど、まぁなんとかなるんちゃう?」という感覚を抱いていることはほぼ疑いようがない。
これは正常化バイアスの仕業なのだろうか? それとも僕が骨の髄まで衰退ポルノに浸かっているのだろうか?
わからない。実際のところ、この社会は、これまではなんとかなってきた。いや、なんとかなっているという見せかけを維持してきた。過労死したサラリーマンや自殺した子ども、介護施設で銃殺された老人にとっては、「なんとかなっていない」のだ。でも、人間は社会をできる限りなんとかさせて、なんとかなっているという素振りを維持する生き物なのである。
でも、これから先もなんとかなる保証はどこにもない。
たとえば食糧という側面だけ見ても課題は山積なのだ。気候変動により雨が降らず、温度が上がりすぎて作物が育たなくなるかもしれない。大規模農業が行きすぎた結果、表土が流出し、地力が下がるかもしれない。農薬を撒きすぎて蜂が絶滅し、受粉ができなくなるかもしれない。化学肥料に欠かせないリン鉱石枯渇するかもしれない。そもそも農家の平均年齢が80代になるかもしれない(とかなんとか言いながら膨大な食品ロスを出している)。
そんな問題を解決しようにも少子化で人がいない。保育士が足りない。若者に金がない。ワンオペ育児が辛い。ようやく生まれた子どもたちも受験に苦しめられて、自殺数は過去最多。
社会に出たと思ったらブルシット・ジョブで無意味に消耗されられ、暴飲暴食を繰り返す。あるいは精神科に列をつくる。発達障害や精神病といった弱者の認定証をなんとか手に入れようと競い合う。結果、生活保護も過去最多。
数少ないエッセンシャルワーカーは長時間労働で酷使される。それでも足りない分はベトナム人留学生を借金漬けにしてこき使う。
かたや馬車馬のように働き貧困に喘ぐ人々。かたや莫大な金を稼ぐ大企業と政治家。文句を言えば、自己責任。鬱は甘え。生活保護はクズ。子持ち様は優遇されてずるい。エッセンシャルワーカーは底辺。移民排斥。環境問題は活動家の捏造。なんの解決にもならないレスバトルだけがXで延々と繰り返される。
ディストピアである。
僕は、このままなるようになった社会で、自分の子どもたちや他の子どもたちに生きて欲しいとは思わない。多くの大人たちはいい教育を施して勝ち組にさせることで子どもの未来を守ろうとするが、勝ち組への道はどんどん狭まっている。そして、勝ち組もまた幸福とは限らないのである。なら、僕は子どもをインターナショナルスクールに通わせるよりも、この社会をどうにかするというベクトルで、子どもたちに貢献したい。
そのためにはアンチワーク哲学の普及であり、労働の撲滅なのである。
この社会の問題の大半は労働が引き起こしている。労働とは不安に漬け込んだ強制である。ベーシックインカムにより不安を取り除けば、強制は消えていき、労働が消える。そして人々はようやく腰を据えてあらゆる問題の解決に取り組もうとするが、その瞬間には問題の大部分が解決されていることに、人々は気づくはずだ。
「なんだ、ぜんぶ労働のせいだったんだ。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう」と人々は口にする。50年もすれば僕たちの世代は狂ったようにモアイ像をつくりつづけるイースター島の人々のように、理解不能なイデオロギーに支配された狂人集団として教科書に載るだろう。
アンチワーク哲学に対する批判に対する、もっとも有効な反論はこうである。
代案は?
そう。誰も代案など持っていないのである。人々はタイタニックの一等客室を奪い合うか、二等客室で悠長にワイングラスを傾けて満足しているにすぎない。自分の子どもを一等客室に押し込もうと夢中になっているうちに、タイタニックは沈んでいく。
このまま労働と共に海底に沈むのか?
それとも労働を捨て、自由と希望の舵を握って大海を駆け巡るのか?
さぁ、どちらを選ぼうか。
子育て問題解決のためのアンチワーク哲学
「異次元の少子化対策」という政府の号令も虚しく、少子化、保育士不足、ワンオペ育児、こうした問題が解決される見通しは一向に立たない。僕自身も1歳と4歳の子を育てる親としては、明らかに子どもへの風当たりが強い社会に変わっていることを痛感する。この問題は解決すべきであることに、異論を唱える人はいないだろう。しかし、有効な解決策をこの社会は見いだせずにいる。
いや、見出してはいる。アンチワーク哲学とベーシックインカムである。しかし、いまのところは広く一般に認められた解決策とは言い難い。
そこで今回は、なぜアンチワーク哲学とベーシックインカムが、子育て問題、少子化問題に対する有効打になりえるのかについて、説明していきたい。
・子どもには無条件の貢献が不可欠
まずは前提条件の整理からである。
人間の子どもは、他の哺乳類と比べても圧倒的に独り立ちまで時間がかかる。文化によって異なるものの、15年~20年、長い場合では30年ほどたってから、ようやく大人としてカウントされ、生産活動における戦力になる。それまでは端的に言えば足手まといだ。
とくに0歳~3歳の子どもはほぼなにもできないと言っていい。食料を生産することはおろか、目の前にある食料を上手く食べることすらできない。自分の面倒を見ることすらできないのだ。つまり、子どもは誰かが無条件の貢献をしなければならない。
・大人は子どもを世話したい生き物
とはいえ、そこまで悲観的に考える必要はない。なぜなら人類は明らかに社会的な生物として進化しており、子どもの世話をすれば、オキシトシンといった脳内物質が報酬として分泌される。つまり、子どもは世話されることを必要とするが、大人も世話することを必要とするのだ。
縄文時代や江戸時代、そしておそらくは昭和時代までは、それが上手く機能していた。自分の子育てが終わった祖母や近所のおばちゃんたち、はたまたママ友たちは、勝手に近所の子どもの面倒を見てくれていたのだ(僕の知り合いに話を聞くと、3世代で暮らしていた大家族で新しい赤ちゃんが誕生したとき、赤ちゃんの祖母と曾祖母がお世話を独占してしまい、実の母親はやることがなくなってしまったという。ワンオペ育児が問題視される現代ではおおよそ起こりえない事態である)。
・過去の人々は子どもを放置できた
そして、子どもが自由に遊べる場があった。『Always三丁目の夕日』的な町なら、家の前の道で子どもがはしゃぎまわっていても、なんの問題もなかった。車にひかれる心配もないし、何か危ないことをしようとしていたら、誰かが注意してくれていたのである。だから親は子どもを(少なくとも現代よりは)ほったらかしにできた。
1歳を過ぎた子どもを家の中に1日閉じ込めるのはむずかしい。子どもは遊びまわりたいというエネルギーを持て余し、そこらじゅうを散らかし始めるからだ。しかし現代なら、家の前で子どもを遊ばせて目を離そうものなら、即座に車にひかれて死んでしまう。だから現代の親はますます数が減っていく一方の公園か、子ども広場のような場所(これも数としては決して多くない)、あるいはボーネルンドのような有料施設に連れて行かなければならない。しかも常に付き添って監督する必要がある。このことが育児のハードルを著しく上げていることに疑いの余地はない。
・職住分離が子育ての難易度をあげた
そして、人々の働き方の変化も、育児難易度をあげている。自宅で八百屋をやるなら、店番の母親は子どもをあやしながらでも(少なくとも現代の労働者よりは)仕事ができたはずだ。顔見知りの客たちは、店主が子どもにおっぱいをあげているのを見て「おい、仕事中だろ? はやくしろ!」などと声を荒げることは稀だったに違いない。ところが、現代のオフィスワーカーが子連れ出勤することなどほとんど不可能である。あわただしく保育所に預けてから働き、あわただしく迎えに行く。この事態は子育ての難易度を大きく上げているはずだ。
・教育費が高値を更新中
小中学校を卒業しておけば、人間らしい生活を営める時代は終わった。家族をもって、十分な暮らしを送れる家や栄養のある食事を手に入れるためには、それなりの大学を卒業してそれなりの企業に就職しなければならない時代である(もちろん、代替案はあるが、多くの大人はそのように感じていることは間違いない)。そうなれば大学の学費はもちろん、塾や習い事の費用も嵩む。勉強したければ教育費が嵩むという問題ではない。有無を言わさず教育費を一定以上掛けなければならないという時代である。その費用をカバーするために、主婦は働きに出る必要があるし、サラリーマンも残業を余儀なくされる。その結果、子育ての難易度はさらに高まっている。
・現代が子育てに向いていない理由
ここまでをまとめると、現代の子育てがむずかしい理由は以下の通りである。
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核家族化とコミュニティの喪失
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自動車中心の街並みと子どもの遊び場の減少
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職住分離
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教育費の高騰
これが、昭和時代、江戸時代、はたまた縄文時代の僕たちの先祖が人口を維持する以上の育児を成し遂げていたにもかかわらず、僕たちにはむずかしい理由である。過去の人々には自動調乳機も、紙おむつも、レトルトの離乳食も、子育て相談窓口も、育児休業制度もなかった。これらの制度やテクノロジーでも補えないほどに、現代は育児がしにくい社会なのである。
■アンチワーク哲学が子育て問題解決の糸口になる理由
では、この現状を踏まえて、アンチワーク哲学が問題解決の糸口になる理由を説明していこう。
・貢献欲という概念の重要性
先ほど僕は、人間の脳では子どもの世話を通じてオキシトシンが分泌されると書いた。つまりこう言いかえることができる。「人は貢献することを欲望する。貢献欲を持っている」と。
これは単なる言葉遊びに思えるかもしれないがそうではない。貢献欲という概念を欠いたまま議論を進めると、「人は子育てをしたいわけではない」という前提が無意識のうちに形成されていく。なら、仕方なく無理やり誰かを子育てに参加させなければならないかのような方向で議論が進められていく。例えば子育てに不満を言う母親を相談窓口で説教したり、なんとかしてテクノロジーで楽をさせようとしたり、そういう方向である(これが上手くいっていないことは先述の通りである)。
しかしこの議論は明らかに筋が悪い。現代の母親が子育てに不満を言うのは、彼女の人格に問題があるからでも、テクノロジーの活用が下手だからでもない。あまりにも過度な負担を強いられているからである。人は食欲を持っているものの、朝から晩まで食べ続けることには耐えられない。同様に人は貢献欲をもっているが、朝から晩まで子育てを続けることには耐えられないのだ(それを強引に耐えさせているのが、現代社会である)。
このように考えたとき、現代の育児問題は、問題の片側しか認識していないことが明らかになる。母親たちは過度な貢献を強いられている一方で、子育てに直接かかわらない人々は、貢献欲を満たせずにいる。僕が4歳の息子を公園に連れて行けば、そこら辺のおばあちゃんたちが我先にと息子にお菓子を渡そうとする。お花屋さんで泣きわめく僕の息子を見た店員さんは、折れてしまった花瓶の花をプレゼントして息子をなだめようとする。電車で乗り合わせた人々は息子に対して笑顔を振りまき、話しかけようとする。息子の祖母や曾祖母たちは競うように息子におもちゃを買い与える。裏を返せば、それだけ人々は日常生活で貢献するチャンスに飢えているのである。
そしてこれは子どもたち同士にも生じている問題である。4歳の僕の息子は明らかに1歳の妹に対する貢献を欲している。ミルクをやったり、着替えさせたり、そういう行為を通じて自己肯定感を手にしようとしているのだ。もちろん、4歳児の貢献は拙い上に、すぐに飽きてしまうため、ほとんど役に立たない。それでも、ちょっと洗濯をする間に一緒に遊んでもらうだけでも、かなり助かっていると感じる。5歳や6歳の近所の子どもが、道路で一緒に遊んでくれたなら・・・と感じずにはいられない。きっとそのような状況になれば、5歳や6歳の子どもたちは責任感と満足感を感じながら子どもの相手をしてくれるだろう。
「育児の社会化」といった概念が不十分なのはこの点である。あたかも子育てに参加することが、本来ならやりたくない義務であるかのような印象を与えてしまうのだ。そうではなく、欲望の追求として子育てを想像することに意味がある。言い換えれば子どもを世話が必要な足手まといではなく、世話をさせてくれる喜ばしい存在として想像するのである。実際、十分に育児の人的リソースが整っている環境では、子どもは自然と世話を通じて喜びを与えてくれる存在となる。
※ただしこのことは育児における貢献の価値を減ずるものではない。空気は貴重ではないがそのことを理由に価値がないとみなすことができないのと同じである。
まとめよう。貢献欲という概念は、本来子育てをやりたがらない人々を子育てに参加させようと考える従来の子育て支援を貫いていた前提を覆す。そして、本来子育てをやりたい人々が子育てに参加できる環境づくりの重要性に気づかせてくれるのである。環境さえ整えば、人々は勝手に子どもの世話を始めるのである。光浦靖子が「(行き遅れた女性は)「母性の行き場がない」と発言するのを、僕たちの社会はもっと真面目に受け取るべきだったのだ。
事実、過去の社会の人々はそうやって子どもを世話してきた。縄文時代の先祖たちがことさらに「子育てを社会化しよう!」とスローガンを掲げていたとは考えづらい。自然と、息をするように、子育てをしていたのである。
※ただし、このことは子育てに何の苦労もないことを意味するわけではない。社会全体で面倒を見ようが、子どもの世話には一定の苦労があるはずである。誰が排泄物を処理するのか?といった問題についても、なんの軋轢も生じなかったとは言わない。しかし、ちょっとやそっとの苦労なら人間は意欲的に攻略しようとするだし、話し合いによって役割分担して(最終的に誰しもがさほど大きな不満を抱くことなく)解決したはずである。
・迷惑概念からの脱却
ここで新たな疑問が生まれてくる。もし人が貢献欲を持て余しているのなら、なぜ近所のおばあちゃんたちは「子どもの面倒をみさせてくれ」と僕の家のインターホンを鳴らさないのか?
様々な原因が考えられるが、「迷惑」という概念が大きな障害となっている可能性が高い。人間を貢献欲を持たない存在として想像するならば、他人に無条件の貢献をしてもらう状況は「迷惑をかけている」と解釈されることになる。つまり、相手に失礼なことであり、一度や二度なら感謝して受け入れたとしても、常習的にその状況に甘えることに対しては母親は「いえ、けっこうですから」と遠慮せざるを得ないのである。
そしておばあちゃんたちも、そのような遠慮を引き出すこと自体に負い目を感じ、自分からわざわざ声をかけようなどとは考えなくなった。逆に言えば、貢献をしてもらうことが迷惑ではなく、欲望の追求であるという概念上の転換が起きれば、貢献活動がスムーズに行われるようになるはずである。そうなれば、貢献欲を持て余したおばあちゃんたちの人生も豊かになり(それは図らずも介護施設で寝たきりになる老人を減らす結果にもつながるだろう)、ワンオペに苦しむ母親は救われる。
・なぜ貢献欲という概念が存在しなかったのか?
さて、人が貢献を欲望するという考え方は、現代社会においては浸透していない。なぜか? 貢献とは、他者から命令された途端に、苦行と化すからである。これをアンチワーク哲学では「労働化」と呼んでいる。
現代においては、他者の貢献の多くは金という命令のツールによって引き出されている。金は人に命令する力が一定程度ある。このことに疑いの余地はない(あなたが上司やクライアントの命令を堂々と拒否できるかどうか、考えてみると明らかになるだろう)。そして金や命令がモチベーションを下げる効果があることは、心理学者や経営学者たちが口酸っぱく指摘する通りである。
貢献欲なる概念が存在しない理由としてアンチワーク哲学は仮説を打ち立てた。
おそらく歴史上のどこかのタイミングで、貢献を命令された人々が、貢献を欲望の対象とはみなさなくなったのではないだろうか?
命令によって貢献が苦行と化しているだけなのにもかかわらず、あたかも貢献全般が苦行であるかのように、僕たちは勘違いしたのではないか?
実際、オーストラリアのイール・イロント族は「労働」と「遊び」を同じ言葉で表現している。ここでいう労働とは植物の根っこを掘ってきたり、獣を狩ったりして他者と分け合う行為である。これらは紛れもない貢献であると同時に、本人たちにとっては遊び同然であった。言い換えれば欲望の追求だったのだ。
彼らの社会には一方的に命令を下す権力者は存在しない。金をちらつかせて他者を働かせる者もいない。これは命令がないところには労働はないと考える強力な根拠の1つである。
つまり、アンチワーク哲学は、命令によって存在しないことにされた貢献欲の概念を復活させ、人間社会の組織化をより効率的にしようとしているのである(ここでいう効率とは、「誰も苦痛を感じることなく、人々の生命と健康が維持され、満足感をもって生きることができる」という目的に対する効率である)。
■ベーシックインカムが解決策になる理由
「で、代案あるの?」と問われればベーシックインカムである。
・BIによる概念上の転換
ベーシックインカムは万人に金を配る制度であるが、アンチワーク哲学はベーシックインカムを「支配からの解放」であると解釈する。
先ほど金は命令のツールになると書いたが、金が命令のツールになるのは金が不足しているからである。もしあなたが毎月生活に必要なだけの金を無条件で手にすることができるなら、不愉快な命令に従うだろうか? パワハラ上司のもとでいつまでも苦渋を舐め続けるだろうか? 普通なら仕事を辞めようと思うはずである。辞めないにしても、「いつ辞めてもいい」と思えるならば、上司に歯向かって左遷させようとしたり、労働時間の短縮を要求したり、条件交渉に踏み切ったりすることも容易になるはずだ。少なくとも一方的に踏み躙られることはなくなるはずである。
つまり理論上、人々は自分が納得した行為にだけ取り組むことができるようになる。その内容がなんであれ、人がその行為に納得をしているのなら、それは欲望の対象である。強制という意味での労働は理論上消え失せることになる。
さて、そうなったときに人々は自分が他者に貢献するときに喜びを見出すことに気づき始める。貢献はどうやら欲望であることが理解されていく。貢献欲なる概念が当たり前のものになっていき、迷惑概念が薄れていく。そうなったときの方が、有効な育児支援策が生み出されるであることは想像に難くない。
・育児負担の低下
それに、慌ただしく子どもを預けて働く母親たちも、子育てに専念できるようになるのである。自分の分も、子どもの分もBIが支給されるなら、育児休暇手当を手にするために、落選狙いで保育園に申し込むようなこともする必要はない。じっくり安心して家で育てることができるのである。
また、父親の育児休業も加速するだろう。職場の評判がさがろうが、路頭に迷う心配はないのである。夫婦と子どもの分のBIがあれば、生活は十分に補えるし、それでも金が足りなくなれば適当な日雇いバイトでもしておけば十分なのだ。
・受験競争の緩和
「それじゃ学費が足りない」などという心配も必要ない。なぜなら、子どもも路頭に迷う心配がないのなら大学に通わせる必要がなくなるからである。
アンチワーク哲学では、教育の過熱化はマイナスサムゲームであり社会の発展に寄与していないと主張する。その根拠は大卒者が溢れかえっている現代が、ほとんど中卒や高卒しかいなかった時代よりも経済成長が止まっていることである。この事実から単純に推論すれば、教育は肩書の獲得競争に過ぎず、全員がさっさと辞めた方がいい不毛な軍拡競争であるという結論は避けられない(もちろんこのことは意欲ある子どもから教育機会を奪うことを意味するわけではない)。
・地域社会への参加率向上
そして、地域社会に積極的に貢献する人も増えるだろう。現代社会において強制された不毛な労働が溢れかえっていることは、多くの人が同意するだろう。そうした仕事を辞めて子育てや地域社会への貢献を行うことは、メリットでしかないのである。
※もちろん、貢献せずにネットゲームに没頭しても構わないのである。無意味な仕事をするよりはマシだろう。
■まとめ
駆け足になったが、以上が子育て問題に関するアンチワーク哲学からの回答である。人間観の更新と制度の更新。それによって子育て問題は解決されていくと主張する。
アンチワーク哲学は子育て問題にかかわらず、社会のあらゆる問題に通底する人間観に関する理論の更新を行うレンジの広い哲学である。そして、相乗効果で様々な問題にいい影響が波紋していくと考えている。あくまで今回は子育て問題にフォーカスしたが、他の問題との波及効果が起きるはずである。
故に子育てに問題だけではなく、社会全体を見据えた視野で問題を把握する必要がある。
アンチワーク哲学の総合的な理解に関しては、以下の記事より、『14歳からのアンチワーク哲学』を無料ダウンロードの上、参照して欲しい。
また、ベーシックインカムの有効性については以下の電子書籍に詳しく書いている。
アンチワークのためのベーシックインカム論
※以下の書籍の前身記事。詳細はこちらを読んでみてください。
先日、ベーシックインカムは「アホっぽい」という理由で否定されがちであることを指摘した。
とはいえ、僕はベーシックインカム至上主義者である。BIはアホが思い描く理想ではなく現実的であり、かつ世の中の問題を解決することができるのだと、人々を納得させてみたい。
そこで、本気でベーシックインカムのメリットを力説する記事を書こうと思う。
■なんのために、ベーシックインカムを実施するのか?
まず初めに語らなければならない点がこれである。なんのためにBIをやるのか?
社会保障費を一本化するためなのか? 公平な社会のためなのか? 雇用の流動性のためなのか?
僕から言わせればそんな細かいことはどうでもいい。僕がなぜベーシックインカムをやるべきだと考えているのかと言えば、次のような考えを実現することである。きっと次のような考えに反論する人は1人たりともいないだろう。
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不愉快な行為を強いられるよりは、強いられない方がいい
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人々が不健康であるよりは、健康な方がいい
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殺人や強盗といった犯罪が多いよりは、少ない方がいい
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いじめや家庭内暴力が多いよりは、少ない方がいい
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貧困に苦しむ人が多いよりは、少ない方がいい
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CO2が大量に排出されるよりは、排出されない方がいい
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人々に自由な選択がないよりは、ある方がいい
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あなたが不幸であるよりは、幸福な方がいい
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あなたに金がないよりは、ある方がいい
僕はこれらの条件を満たすために欠かせない制度がBIであると確信している。これらは人類が頭を悩ませ続け、解決するために試行錯誤しているにもかかわらず、いまだに解決の兆しがないような問題たちである。
細かい根拠については後述するが、仮にこれらの問題が解決できるのだとすれば、BIに反対する理由などほとんどないはずだ。
もちろん、重要なのは「本当にそうなるのか?」である。それを説明するためには膨大な準備が必要となる。が、できればお付き合いいただきたい。
ご存知のように、BIについての議論はあっちこっちで行われているが、状況はカオスとしか言いようがない。その理由は次のようなものだ。
■制度設計どうするか問題
BIについての議論が混乱しがちな理由の1つとして、論者によって思い描いている制度設計がバラバラという点がある。ひとくちにBIといっても、その金額や財源、既存の社会保障費の扱いなど、様々なパターンが存在し、パターンによって得られる結果は大きく異なるだろう。
どのような制度を前提とするのかを提示しないまま「BIはダメだ」「BIは最高だ」などと議論するのは、「女はエロい」「いやエロくない」と議論するようなものだ。当然、エロい女もいるし、エロくない女もいる。
となると、BIについて議論するために、BIにどのようなパターンが存在するのかを、分類し、整理しよう。
・財源問題
まずBIについて最も議論が別れる財源について。月7万円程度のささやかなBIであろうが1億2000万人に配ろうと思えば、追加で約100兆円のお金が必要になる。これをどのように調達するかが、最大の焦点になる。
ここでは大きく分けて2つの考え方がある。
1つは、現在の税収(社会保障費)+増税でやりくりするパターンだ(これを便宜上「やりくり主義」と呼ぼう)。おおむね、生活保護費や年金、雇用保険、健康保険などをBIに一本化したり、関連する公務員をクビにしたりして、それでも足りなければ何らかの税金で賄うという考え方だ。
2つは、通貨発行益を利用するパターン(こちらは「通貨発行主義」と呼ぶ)。いわゆるMMT的な発想である。自国通貨を発行している日本は、財政破綻することはないので、適度なインフレに収まる範囲内で国債を発行し、中央銀行に買受させればOK(要するに金を刷ればOK)という、やや破廉恥な印象のある発想である。
さて、財源の問題は、そのまま社会保障の問題に直結する。
・既存の社会保障の扱いをどうするか問題
年金や健康保険、雇用保険、生活保護といった既存社会保障の代わりとしてBIを支給して一本化するのか。あるいは、既存の社会保障はそのままにBIを上乗せするのか。あるいはその中間か。
おおむね、やりくり主義者は、既存の社会保障をカットするパターンを想定する(というか、そうしなければどう考えても税収が足りないので当然である)。
それに対して、通貨発行主義者は、既存の社会保障の大部分を残した上で、さらにBI支給するという考え方を採用する傾向にある。
・金額問題
さらに金額の寡多である。月7万円なのか。10万円なのか。12万円なのか。それ以上なのか。もっと言えば成人だけに配るのか、子どもも含めて配るのか、といった点も争点となる。
さらに言えば、この点はあまり議論されないのだが、金額を固定するパターンなのか、物価に合わせて変動させていくパターンなのかも、検討の余地がある。
ただ、この点についてもやりくり主義者は、ぎりぎりの税収でなんとかやりくりしようとするため、月7万円程度で子どもには支給せず、インフレを考慮しないようなケチケチしたBIを想定しがちである。その一方で通貨発行主義者は月10万円以上で子どもにも支給し、かつインフレ調整も行うような太っ腹なBIを想定する。
・まとめると…
ベーシックインカムに対する考え方は大きく2つに分けられる。
1.やりくり主義
現在の税収と増税によりBIを賄おうとする考え。通常、年金や医療、雇用保険などの既存の社会保障の大部分をカットして、BIに一本化することが想定される。また、金額は固定しようとする傾向にある。
2.通貨発行主義
国債発行により財源を確保し、BIを賄おうとする考え。年金や医療、雇用保険などの既存の社会保険の大部分を残しつつ、BIを上乗せ支給することが想定される。またインフレに合わせて金額を調整する傾向にある。
もちろん、この中でも金額の寡多や「どの社会保障を残して、どの社会保障を残さないか」といった点では意見が別れるものの、おおむねこの2つのパターンに大別されると見て問題ないだろう(逆に、やりくり主義で社会保障を残そうとする人や、通貨発行主義で社会保障を全カットしようとする人はいない。前者はそもそも金が足りないし、後者はそんなにケチケチするなら通貨発行する意味がなくなるからだ)。
さて、BIには大きく分けて2つのパターンが存在することがわかった。そして少し考えればわかるのだが、やりくり主義と通貨発行主義は似て非なるもので、どちらを採用するかによって生じるデメリットは大きく異なる。
次は、それぞれのパターンのデメリットを見てみよう。
■やりくり主義のデメリット
・社会保障のないディストピア
やりくり主義を極限まで突き詰めたパターンであれば、医療保険や年金、生活保護費、雇用保険などは全てカットされて月7万円かそこらのBIが支給されることになる。
つまり、医療費は3割負担なわけだが、それが10割負担になる。年金受給者や生活保護受給者の実入は月7万円程度まで格下げされる。失業手当や育休手当なども同様だ。
BI反対論者の一定数は、このパターンを想定して批判を行う。つまり「貧乏人は病院に行けないようなディストピアになってもいいのか?」というわけだ。もちろん、それでいい訳がないので「ほれみろ、BIなんて夢物語なのだ!」と結論づけることになる。
・大増税時代
あるいは、社会保障をある程度残すパターンのやりくり主義を唱えるとなると、必然的に大増税時代が訪れることになる。当たり前の話だが、月7万円のBIをもらって月7万円の税金がとられるなら、何の意味もない。
故に「社会保障をカットしないとすれば、大増税でBIは何の意味もないぞ!」とBI反対派は主張することになる。
「金持ちや企業から取れ」という声もあるわけだが、それに対してはBI反対派は、「金持ちや企業が国外に逃げて国内産業が崩壊する」という反論を行う。僕は産業崩壊論については懐疑的なのだが、その点は割愛するとして次に進もう。
■通貨発行主義のデメリット
当然、BI賛成派は「病人や年寄りは野垂れ死ねばいい」とか「7万円のBIのために国民1人あたり7万円増税すればいい」などと主張することはない。となると通貨発行主義に走ざるを得ない。が、これも当然デメリットは想定される。
・ハイパーインフレ
通貨発行主義のデメリットはこれに尽きる。自国通貨を発行できる日本が財政破綻することはあり得ない。だが、好き放題、通貨を発行すれば当然ハイパーインフレのリスクが高まる。
BI賛成派は「ある程度はいけるやろ!」と主張するわけだが、反対派は「いや無理やろ」となる。
つまり、制度面での争点は次の点に集約される傾向にある。
通貨を発行すればインフレするのか、それともしないのか?
■最大の争点、インフレとはなにか?
ここで、アホっぽいと思われないように、小冊子を取り出してこよう。
インフレ(物価上昇)がなぜ起きるのか。著者のスコット・サンテンス曰く…
物価上昇は、何かに対する需要が供給を上回ったときに起こるものです。
この点には異論はないだろう。そして、このことからスコットは、お金を配ってもインフレしないパターンについて解説してくれる。
・インフレしないパターン
もしアメリカの成人全員に毎月1200ドルを配ったときに…
もし全ての人々が1200ドルの小切手を現金化してベッドの下に隠したとしたら、おカネが新たに創られたとしても需要の増加は起こらないので、インフレ的な効果は全くありません。
若干、直感に反する部分ではあるが、間違いないだろう。金が配られても、みんながタンス預金に回すなら、その結果はなにも起こらない。当然である。
また、サンテンスは次のようにも語る。
もしみんなが1200ドルを音楽配信に使ったとしても、その需要は供給量を超えることはないでしょう。なぜなら、そのような商品は無限に供給を増やせるからです。だから、インフレ的な影響は生じないのです。
つまりいくらでもコピーし放題のもの(ソシャゲのアイテム、ゲームのダウンロードコンテンツ、配信音楽、動画など、いわゆる限界費用ゼロの商品)は、いくら需要が高まってもインフレしないというわけだ。
また、需要が増加して供給が不足していても、インフレしないパターンもあるという。それは単純に順番待ちをしてもらうケースだ。品薄であってもニンテンドーがSwitchの価格を釣り上げるようなことはしかなった結果、Switchの価格は据え置きであった。つまり、インフレは起きなかった。
あるいは、需要増加により逆に価格低下になるケースとして、サンテンスは天然ガス採掘の水圧破砕法の発明を上げている。
原油価格が高騰し、産油業がものすごく儲かるようになったとき、石油生産を増やす方法が発明されたのです。(中略)これによって、1ガロンあたり4ドル以上だった価格が半分以下にまで下がり、そのおかげで物流コストも下がり、他の多くの物も安くなったのです。
つまり需要が高まった結果イノベーションが起きて、逆に価格が下がるケースもあるわけだ。
では、逆にインフレするのはどのようなときか?
・インフレするパターン
サンテンスは中古車を例に説明する。
2020年には、中古車の需要が増え、結果的に中古車の価格が上昇しました。限られたものを欲しがる人が増えれば、それを買おうと競争する人が出てくるので、そのぶん価格が上昇します。
コロナによって車の必要になる郊外に引っ越す人が増えたことで需要が増え、世界的な半導体不足で供給が減り、その組み合わせで中古車価格は上昇した。
あるいは、ガソリンの場合はといえば…
202年の外出禁止の頃は、ほとんどの人々が家から出られず、車を使えなくなったので、ガソリン価格が急落しました。需要よりも供給がはるかに多くなったのです。その結果、製油所が閉鎖され、ガソリンの生産能力が縮小しました。2021年には需要が通常の水準に向かって急激に回復しましたが、一部の製油所が永久に閉鎖されたため、2021年の生産能力は2020年のそれを下回っています。需要の大きな変化に対応するには時間がかかるので、ガソリン価格が高騰したのです。
ここまでを簡単にまとめると、冒頭の結論に帰ってくる。インフレとは、需要が供給を上回ったときに起きるが、お金が配られるからといって必ずしもインフレするわけではないし、需要が供給を上回ったとしても必ずしもインフレするわけではない。また、この商品はインフレしたけど、あの商品はインフレしないということもあり得るわけだ。
(金余りだけではインフレが起きないことは、そもそもタンス預金がGDPの5倍ほどになる日本が証明していると言っていいだろう)
では、通貨発行&BIによって起きるインフレとはどのようなものだろうか?
■通貨発行&BIによって起きるインフレとはなにか?
・需要が増えるパターン
まずは需要側から考えてみよう。月10万円を追加で配られたとして、「ひゃっほうー!金もらえたぜ!」と喜ぶ人々が一体なにを買うのか?
先ほどの議論からすれば、全員がソシャゲに課金したとすればインフレは起こらない。全員がニンテンドーSwitch購入を決めたとしてもニンテンドーが顧客に順番待ちを強いたならインフレは起こらない。では、全員がsupremeのパーカーを購入するならば? 間違いなくsupremeのパーカーはインフレするだろう。
とはいえ、このパターンに関しては大した問題だとは思えない。なぜならば、supremeのパーカーが高かろうが安かろうがどうでもいいからである。
それに、仮に人々の欲望が嗜好品に向ったとして、supremeに一点集中することはあり得ない。ゴルフクラブを求める人もいれば、高級メロンを求める人もいる。supremeの高騰の結果、衣料品全般の原料が高騰し、衣料品全般の値段が上がったなら大問題であるが、特定の嗜好品やその原材料だけが急激にインフレするような事態には陥ることはないだろう。
では困るのはなにか? それは生活必需品の高騰だろう。最悪の場合、supremeもゴルフクラブも高級メロンも諦めはつく。しかし、トイレットペーパーや米、冷蔵庫の値段が高騰するとみんなが困る。
とはいえ、「よっしゃあ月10万円もらえるから、米2倍食おう!」などと考えるような人はいないか、いたとしてもごく少数であることは明らかだ。天下取っても二号半である。
せいぜいシングルを使っていたトイレットペーパーをダブルにしようとか、ちょっと高い国産の家具を買おうとか、有機野菜を買おうとか、グラスフェッドの牛肉を買おうとか、その程度の変化に過ぎない。この手の現象は起きないか、起きたとしてもいい影響であると捉えられる。
なぜなら、高級品とは往々にして労働環境が良好な職場で創られていて、かつ環境負荷が少ない傾向にあるからだ。みんなが国産の家具を買えば、国内の林業が盛り上がり、逆に国産家具の価格が下がる可能性すらある。有機野菜の価格が下がることも、間違いなく良いことだ。
ここまでの議論をまとめよう。
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BIを配ったからといって、生活必需品の需要が高騰することでインフレが起きるようなことは考えにくい。
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上がるとすれば嗜好品だが、嗜好品の需要は分散されるので対して上がらないだろうし、上がったとしても大した問題ではない。
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逆に高級品の需要が高まることで、持続可能な産業が成長し、価格が下がるといういい影響も考えられる。
さて、BIによって需要が増えることはおそらく悪いインフレをもたらさないことがわかった。となると次に考えるべきは供給側だろう。供給が減ってもインフレは起きるのだから。
・供給が減るパターン
気づけば最もBIに関する議論の中での、重要項目にたどり着いてしまった。BIによって供給が減る状況というのは、要するに誰も働かなくなるケースだ。
「BIもらえるから働かなくていいやー!」と米農家が仕事を放棄すれば、米の価格は急騰し、子どもたちが飢えることになるだろう。家を建てる人もいないし、電気やガスも届かない。道路工事も行われなければ、ごみ収集も行われない。もちろんそんなことになったなら、日本は終了である。
では、人々はBIを支給されれば働かなくなるのだろうか? この点については詳しく検討していこう。
■働かなくなる問題について
この問題については、ルドガー・ブレグマンの『隷属なき道』を紐解くのが適切だろう。
この本では、BIの小規模実験の結果が大量に記載されている。例えば、アメリカの各地域で行われた実験についてである。
全体的に、労働時間の減少はわずかだった。(中略)賃金労働の減少は一世帯あたり平均九パーセントで全ての州においてこれは、幼い子どもをもつ若い母親が、外で働く時間を減らしたのが原因だった。後の調査では、この九パーセントさえ、多めの見積であることがわかった。(中略)労働時間の減少はきわめてわずかだったことが判明した。
本の中では、この手の調査結果が「これでもか」というくらいに挙げられている(ついでに言えば、ほとんどのケースで、犯罪の減少、障子死亡率の低下、貧困の撲滅、学力向上、経済成長といった効果が見られた。ホームレス対策費の最も有効な使い方は、ホームレスにそのお金を直接渡すことであったし、麻薬対策費の有効な使い方も、ジャンキーにそれをそのまま渡すことであった)。
要するに、「金を渡したら働かなくなるだけ」という議論は、小規模な実験においてはほぼ否定されている。この手の実験は検索すればいくらでも出てくる。
もちろん「小規模かつ短期間の実験だからやめなかっただけであり、大規模かつ長期間の実験ならやめるだろう」という反論は常に可能である。フィンランドのような小国でうまく行ったからといって日本でうまくいくとは限らない、というわけだ。もちろんその通りなのだが、その理論を振りかざすのであれば、今後どんな政策も実行不可能になるということを理解すべきだろう。どのような政策も2024年の日本で行ったことは一度もないのだから、実施したことが原因で南海トラフ地震が起こる可能性はゼロではない。故にどのような政策も実行すべきではないと僕が言っても反論できなくなる。もちろん、こんな馬鹿馬鹿しいことを主張する必要はない。僕たちは、手に入れられる情報を元に、最大限ありえそうな予測を立てる。今のところ手に入る情報では、BIがあってもみんな働きそうである、という話だ。
また、これは僕がよく挙げる根拠なのだが、日本の農家の平均年齢は66.8歳であり、年金受給年齢を過ぎている。中央値ではないし、農家のうちどれだけが年金受給資格を満たしているのかはわからない。ただ、(二次情報だけど…)無年金率は1.3%らしい。
要するに農家の半分近くは年金という名の事実上のBIを受け取っているにもかかわらず、仕事を即座にやめるような事態に陥っていない。
おそらく65歳以上の農家に住宅ローンなんて残っていないだろうし、子どももほぼ独立しているはずだ。それに農業なんて決して儲かる商売でもない。それでも彼らは農業を辞めようとしない。惰性なのか、他にやることがないからなのか、使命感からなのかはわからないが、これが現実である。
以前、BI反対論者の記事で、「BIを配ったら、人々に生活必需品を供給する保証がなくなるからダメ」といった反論を書いているのを見たことがある。だが、それを言うなら、現時点で保証はないのだ。保証するためには、日本の農家から年金を取り上げなければならない。
これだけ根拠をあげれば、「BIを配れば誰も働かなくなる」という議論にはほとんど説得力がないと言っていいだろう。フィンランドや他の国々で短期的に行われたBI実験は成功したけど、日本で長期でやれば失敗するし、農家は事実上BIをもらっても働いているけれど、他の産業はそうはならないとでも主張するのなら、それ相応の根拠が必要だ。おそらくBI反対論者にそれだけの根拠はないはずだ。
■生きがいがなくなる問題について
これはいちいちトピックを立てるまでもない問題だと感じるが、意外とよくある反論なので、あらためて取り上げておく。
それは「BIで生きがいがなくなる」という反論だ。例えばこれ。
ベーシックインカムの導入により、経済的な安定が得られる一方で、個人の生きる意味や職業に対する意欲が変容する可能性があります。この変化が逆に一部の人にとって適応困難となり、生きる意味を見失うリスクが存在します。
生きる意味の喪失は、精神的な問題や社会的な孤立を引き起こす可能性があり、これに対処するために一部の個人が薬物や反社会的行動に繋がるケースが増加するかもしれません。実在そのような見解を示している専門家もいます。
これは一言で反論できる。「そう思う人は働くんじゃないの?」だ。BIが配られるからといって誰も「働くな!」とは言わないのである。
逆にBIによって能力のない人から活躍の場が奪われるという議論もあった。
これに関しては「ありえない」と一蹴して問題ないだろう。
この議論には、そもそも今の社会で能力がない人が雇用されているのは「食わせてやるため」のお情けであって、彼らは単なる社会のお荷物であるという前提がなければならない。つまり、企業は、能力がない人を首にしても路頭に迷わないことがわかった途端に「あ、お前らはいらないから」と即座に首を切り始めるというわけだ。
能力がないとされる人々がつく底辺職であればあるほど社会に必要であることは、おそらく間違いない。
そもそも企業は慈善事業ではない。人を雇っているのは、それはその人を雇うことで利益が出ると判断しているからであって、無能な人を食わせてやるためでは決してない(障害者雇用などは例外かもしれないが)。
要するに、仕事が生きがいだと感じる人はそのまま働けばいいし、それを止める人はいないということだ。
■その他、雑な反論について
BI反対論には多種多様なバリエーションが存在する。玉石混交で大半は石なわけだが、重箱の隅をつつくいて鬼の首を取ったような顔をされるのも癪なので、目につく限りで一通り反論してみようと思う。
・貧困ビジネスの蔓延
そもそも、生活保護を受給している人をターゲットにした悪徳商売を展開する人もいる中で、ベーシックインカムのように全国民に一律で一定額が給付されるようになった場合、それに目をつけた悪い人がそれを商売のタネにすることは大いに予想される。それはあまり良い社会とは呼べないような気がするのだ。
これはほぼ言いがかりだが、一応反論を試みよう。
そもそも今の世の中では助成金ヤクザのような人もいるし、生活保護の囲い屋もいる。だがこれは制度が複雑で官僚制によって用意されたサーカスの輪をくぐり抜けるサポートと称してピンハネするような人々なので、BIのように明快なシステムにおいては悪い人の出る幕は少ないように思える。また、それを理由にするのであれば、世の中のあらゆる手当や助成金を廃止すべということになってしまう。
・平等は公平ではない
同じ方の別の論点についても触れよう。
そもそも、全国民に「平等」にお金を配ることは、決して「公平」ではない。ベーシックインカムは、全国民に一律にお金を配るというものだと思うのだが、社会福祉を必要とする貧困層と、それを必要としない富裕層にも一律でお金を配ろう、ということになる。それは富の分配としてはあまりにも大雑把だし、意味がないのでは、と思うのだ。
これもほぼ言いがかりである。BIの目的は公平であることではない。そもそも別に誰も公平になど興味はないのである。BIのメリットは後述するが、万人に対する生活の保障による支配からの解放である。
・リスクがわからない問題
イレギュラーにどう対応するのかの議論がなされてない
これが一番私が思うダメなところである。
試算でこれだけしかインフレしないとか言われても、実際もっとインフレしたらどうするのかという視点が無い。
ベーシックインカムは上手くいくはずだだけでなく、インフレへの対処は?世界情勢の変化で物価上昇したら?経済状況の悪化による維持が困難時の対処は?財源不足にならないようにするために何をする?という様々な視点での考察を行い、道筋を作れないなら机上の空論としか言いようがない。
イレギュラー起きて対処遅れれば財源不足による支給の遅れ、インフレで支給額がほんの端金になったりと助けたいはずの貧困層が一番苦しむ結末になりかねない。
それなのに議論されてないのは、ベーシックインカム信者達の欺瞞と言わざるを得ない。
これは議論の体をとった却下と言っていいだろう。この人の前にエビデンス資料を100ページ用意すれば101ページ用意しろと言い、101ページ用意すれば「長すぎて読めない」とか言い出しそうだ。
気持ちはわからんでもないが、それを言い出したなら何もできなくなる。それに、先ほどまでの議論を考えればインフレリスクは低そうだ。
・共産主義を知らないのか?問題
運用するのは人間であるのを理解していない
共産主義という思想はご存知だろう。
政府が富を集めて分配し、皆平等を目指す経済思想だ。
実現できればみな平等で貧困な世の中が実現できるだろう。
しかし、それはあくまで理想論だ。
現実では富が集中する政府の関係者たちが富を独占し、平民は皆貧乏になるという末路を辿ることが多い。
性質上ベーシックインカムも同じ末路を辿る可能性は高いのだが、何故か政府に善性ありきで語られている。
それではあくどい者が政府に入り込むだけであっという間に破綻しかねない。
僕たちは幼少期から「共産主義を持ち出しておけばどんな議論も論破できる」と進研ゼミで教わってきた。が、よく考えれば意味がわからない。
ベーシックインカムにはむしろ政府の善性は必要ない。平等に配ると言う性質上、システムは全くもって透明だし、利権が全く発生しないからだ。ベーシックインカムによって袖の下を受け取ることは不可能だし、中抜きするのも不可能だろう。
・移民問題
これはありがちな批判だが、日本がBIを導入すればBI目当ての移民が殺到する、というものがある。これに関しては「いいんじゃねぇの?」で良いと思う。そもそも、移民がなぜダメなのかと言う理由を聞けば、安く働きがちな移民に仕事が取られて賃金が下がることや、治安が悪化することがあげられるわけだ。
BI下であれば、賃金が下がっても別に大した問題はないし、後述するがBI下では犯罪率が低下することが予想されるので治安の問題もクリアである。そもそも日本がBIを成功させれば各国が続いて実施すると思われるので、日本にだけ殺到するような事態にもなるまい。
・為替問題
国債発行により通貨供給量が増えれば極端な円安が進み、日本人が真面目に働いていても輸入品の高騰によるインフレが起きることは予想される。この問題については、ぶっちゃけよくわからない。だが、後日別記事にまとめようと思っている(ので、一旦スルーさせてほしい)。
■ここまでのまとめ
雑な反論に構ったことで議論がとっ散らかったが、一旦整理しよう。
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通貨発行型のBIなら社会保障はそのままで、BIを実現できる。
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想定される通貨発行型BIのリスクはインフレである。
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インフレは需要の増加、または供給の減少により起きる。
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だが、生活必需品の需要が大きく増加する可能性も少なく、嗜好品の需要は分散されることから、需要の増加による大幅なインフレは考えにくい。
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誰も働かなくなって供給の減少する可能性は、数々の実験や年金受給者が大半を占める農家の現状を見れば、低いと考えられる。
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故に、供給の減少によりインフレが起きる可能性も低い。
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故に、通貨発行型BIのデメリットは(思いつく限りでは)ない。
さて、ここまででもう1万字を超えているわけだが、デメリットのフォローばかりをやってきた。そろそろ、メリットの方を書いていきたいと思う。ここまで見てきたところデメリットはほとんどないと言っていい。ならばメリットに目を向けてもいいだろう。
■BIのメリット
・貧困の撲滅
これに関しては説明不要だろう。貧困とは金がないことだ。金を配るなら貧困はなくなる。
・ブルシット・ジョブ撲滅
仕事をやめる人は少ないという主張と矛盾するように感じるかもしれないが、自分の仕事が無益だと感じているような人なら、即座に仕事をやめることだろう。あるいは「もっと有益な仕事をさせろ、でなきゃやめてやる」という交渉を持ちかける可能性も高まるだろう。無意味な書類仕事や、会議に次ぐ会議といったブルシット・ジョブは減少するはずだ。
グレーバー『ブルシット・ジョブ』によれば先進国の37~40%の仕事はブルシット・ジョブであるという。ならばある程度なくなっても問題ない。
グレーバーはBI下の社会を想像して次のように述べている。
自由な社会の一定の層が、それ以外の人々からすればバカバカしいとか無駄だと思える企てに邁進するであろうことはあきらかである。しかし、そのような層が10%や20%を超えるとはとても想像し難い。ところが、である。富裕国の37%から40%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄だと感じているのだ。経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいはブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ! もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、自らの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?
また、ブルシット・ジョブの撲滅は、インフレの抑制にもつながると考えられる。企業は、広告宣伝や営業活動、その他ブルシット・ジョブに莫大な費用をかけている。それらに携わる人々に支払っていたお金が必要無くなれば、単純にものの価格は下がっていく可能性もある。インフレ傾向は多少なりとも抑制してくれるはずだ。
・環境問題の改善
ブルシット・ジョブのために建てられたオフィスビル。エネルギー。過剰生産。過剰労働。こういった活動が抑制されれば、環境問題も解決に向かっていくと思われる。少なくとも、今のところそれくらいしか有効な解決策はないように見える。
・健康問題の改善
ストレス過多のブルシット・ジョブから人々が逃れられたとき、真っ先に生じるであろう効果は健康問題の改善である。
ブレグマン『隷属なき道』においても、短期間のフリーマネーの支給ですら人々の健康問題の改善に寄与したことが示唆されている。おそらく、長期の支給であるならもっと大きな効果が得られるだろう。そしてこのことは図らずも、医療費削減、医療業界の労働時間削減にもつながるはずだ。国債発行によるインフレリスクも、多少軽減することができるだろう。
・犯罪率の低下
これもブレグマン『隷属なき道』にて度々、示唆されているし、僕たちの直感にも合致する。貧すれば鈍するわけで、衣食足りて礼節を知るわけだ。
そもそも、未来永劫まで食うに困らない社会で強盗する理由などあるだろうか? 殺人する理由などあるだろうか?
そしてこの傾向も財政問題の解決に寄与することになる。警察、検察、刑務所、裁判といったあらゆるセクションの支出の削減が可能になっていくはずだ。
・家庭内トラブルの減少
そもそも殺人の半数は家庭内でおきている。このことが何を意味するかを考えてみよう。
普通、人間は人間を殺したいとは思わないものである。可能であれば、殺したいと憎む前に、その人からそっと離れるのが普通だ。しかしそれができないのが家庭である。
夫の収入がなければ生活できない妻や子どもが、暴力に耐えなければならないのは、夫の収入がなければ生活ができないからだ。BIがあればいつでも逃げることができる。家庭内でわざわざ殺人を犯すような事態にまで発展することがありうるだろうか?
そもそも、夫の方も、ストレスをためながら労働する必要はないのである。誰が妻を殴るだろうか?
・いじめ問題の撲滅
いじめられても学校に通わなければならないのは、学校に通わなければ就職できないからだ。もし、就職しなくても食っていけるのであれば、無理に学校に通う必要はなくなる。
それに、親の懐にも余裕が生まれているわけで、モンテッソーリの学校とかオルタナティブ教育を試す余地も生まれる。いじめで自殺するような子どもは、長い目で見ればいなくなるはずだ。
・過剰な競争社会の抑制
大卒者が半数を超えた日本だが、経済成長が止まっていることを見れば、「教育に金をかければ社会が豊かになる」という社会一般に普及している漠然とした期待が嘘であることは明らかである。教育は単に美味しいポジションを確保するための椅子取りゲームと化していて、そのために子どもたちが夜遅くまでに勉強しているわけだ。就活競争も同様である。
こういった活動は、多少はあってもいいものの、明らかに今は過剰だろう。競争に勝たなくても路頭に迷うことがないという絶対的な安心感があれば、有害な競争は減っていくはずだ。
・企業不祥事の撲滅
好き好んで街路樹に除草剤を撒く人などいない。しかし、ビッグモーターに勤めるサラリーマンたちは撒いたのである。では、なぜ撒いたのか?
社長からのプレッシャーであり、上司からのプレッシャーである。そして、なぜ彼らがプレッシャーに屈する必要があったのかと言えば、逆らえばクビになるかもしれないと恐れていたからだ。
逆にいえばBIによってクビを恐れる必要がなくなったのなら? 「いや、それはおかしい」と反論する人がたくさんいたに違いない。そこまでしないとしても、そっと職場を離れる人が多数現れただろう。
ビッグモーターに限った話ではない。汚染物質を垂れ流したり、環境汚染の検査の数値を誤魔化したり、そういうことをする人は間違いなく減るはずだ。
・少子化問題解決
子どもにもBIが支給される上、育児に専念できるお金も手に入るのであれば、子どもを産もうと思う人は増えるはずだ。異次元の少子化対策にふさわしいのはBI以外あり得ない。
・お金がもらえて嬉しい
最大のメリットはこれである。何はともあれ嬉しい。このことを見逃してはいけない。嬉しいことはいいことである。みんなハッピーで幸せである。
・やりたいことができる
やりたい仕事に就いたり、仕事以外でやりがいを見つけたり、何はともあれ人生の選択肢が広がることは間違いないだろう。社会に必要な財やサービスが提供されるのであれば、そうなることは間違いなく良いことである。
・労働が労働でなくなる
これは僕が提唱するアンチワーク哲学そのものなわけだが、改めて説明していこう。これこそがBIの最大のメリットであると僕は考えている。
■BIによって労働は消える
※以下、僕のフォロワーにとってはお馴染みの議論なのですっ飛ばすことをおすすめする。
・そもそもなぜ労働は辛いのか?
多くの人は、マクドナルドの店員がポテトを揚げることや、農家が畑を耕すことそのものが辛いから、労働が辛いと考えているが、それは誤りである。
決して労働と見做される作業そのものが本質的に辛いわけではない。趣味で料理をする人も家庭菜園をする人もいる。彼らは好きでやっているわけで、辛いだなんて思っていないのだ。
そんなことは当然である、と思っただろう。ではなぜ労働が辛いのか? それはズバリ支配されるからであり、無意味な仕事であっても拒否できないし、気分が乗らなくてもやらざるを得ないからだ。
上司や客、社長に歯向かえばクビになる。ならば歯向かえない。8時間以上働かなければならないし、無理難題なノルマにも答えなければならない。無意味な会議にも出席しなければならない。こういう状況を人は「辛い」と感じるわけだ。
事実、マクドナルドの店員が「ポテトなんか揚げたくないねんクソが!」と愚痴ることはないし、「ハンバーガーの作り方むずかしいから死のう」と言って死ぬことはないのである。
・なぜポテトを揚げるのは辛くないのか?
ポテトを揚げる行為には明らかに意味がある。客が食べてくれて、喜ぶ、腹を満たせる。要するに誰かに貢献する行為である。
自発的に誰かに貢献したとき、人は快感を覚える。要するに、人は誰かに貢献することを欲望するのだ。
世話を焼きたくて焼きたくて仕方のないおばあちゃんや、母親の手伝いをしたくて仕方がない3歳児。文化祭の準備を手伝うことができずにモジモジしている男子高校生。鳩に餌をやるおっさん。こういった人々は明らかに貢献を欲望している。
だからポテトを揚げる行為は辛くないどころか、自発的なら楽しいのである。
・なぜ強制されると辛いのか?
しかし、これが強制されるとなると話は変わってくる。もしあなたが「塩をとってくれ」と頼まれたら喜んで渡すだろうが、「おい、塩を取れ」と言われたなら断るか、渋々ながら渡すだろう。
全く同じ行為であっても、お願いから始まる自発的な行為であるか、強制されているかによって、その行為が楽しいものになるか、辛いものになるかは変わる。
労働とは、事実上の強制である。なぜなら、労働をやめれば自分や家族が路頭に迷うからである。もちろん、転職することもできるし、生活保護もある。とはいえ、ほいほい転職できるわけでもないし、生活保護の受給も簡単ではない。
・BIによって強制が消えれば、労働は労働でなくなる
BIがあれば、ほいほい退職も転職もできるようになる。つまり辛い労働からは誰もが逃れられるようになり、理論上は全ての労働を自発的に行うことができる。長すぎると思ったなら時短労働を交渉しやすくなるし、仕事内容に不満を感じれば配置換えを要求しやすくなる。
どう考えても理想的な社会である。
労働の供給量が減るリスクもあるが、そもそも現代はブルシット・ジョブで溢れかえっているし、過剰生産に陥っている。ならばちょっとやそっと働く人が減っても問題はない(ブルシット・ジョブが減っても供給量は減らないし、過剰生産分が生産されなくなってもインフレは起きない)。
そもそも温暖化でこれだけ騒ぎ立てているのである。仕事量が減れば間違いなくCO2は減るのだ。本気で温暖化対策をやるにはBIをやる以外にあり得ないだろう。
※ここまでの内容は以下の記事にも詳しくまとめてある。
■総まとめ
一応あれこれ書いてきたが、実のところ僕はマクロ経済に関してはど素人である。特にインフレの部分や為替の部分に関しては、確固たる自信はない。なので真面目な話、ツッコミどころがあれば突っ込んでほしい。
ただ、僕にとってBIは、それらのデメリットが訪れる不確実性を補ってあまりある魅力があると感じている。繰り返すが人類が頭を悩ませてきたあらゆる問題を解決する可能性を秘めているのである。そんな政策を他に思い浮かべることができるだろうか?
貧困、環境問題、犯罪、健康、いじめ、不祥事、少子化…これらの問題に僕たちはどれだけの時間をかけて、どれだけの空振りを繰り返してきたことか。歴史を振り返るのも憂鬱になるくらいに、成果は挙げられていないか、微々たるものだろう。
だったら、多少不確実であっても清水の舞台から飛び降りる気持ちで実験してみても良いと考えるのは、さほど常識はずれな考えでもないはずだ。
もちろん、一夜にして全てが変わるわけではない。はじめはどのように振る舞って良いかわからず困惑する人もいるだろうし、犯罪の低下や健康問題の改善などは時間をかけて進行していくプロセスだろう。とは言え、長い目で見たときに、良い結果が得られるであろうことは間違いないように思う。
おそらく何を言われても僕がBI信者をやめることはないだろう。しかし、デメリットにも慎重に目を向けたいと思っている。
要するに、ぜひあなたにも議論に参加してきてほしい。
労働が生まれた日
経済は物々交換から始まった。万人による闘争を抑え込むために人々は国家という社会契約を結んだ。人間は農業という禁断の果実をかじった結果、狩猟採集生活というエデンの園から放り出された。
こうした神話は想像によって生み出されていて、実際の根拠はないどころか、そのほとんどが反証されている。とはいえ、最新の考古学や人類学の知見を目ざとくチェックする人物など全体の1%にも満たず、神話のイメージはいまだに人々の想像力を支配している。
その結果、社会は停滞している。社会に必要な変革を起こすためには、人々の価値観の変革が必要であることは自明である。
しかし、先述の通り価値観の根底にある神話は理論上は否定されていたとしても、現実的に根絶されているわけではない。
なら、アプローチを変えてみてもいいのではないか? 熱心に神話を否定してみるよりも、新しい神話を生み出してみてはどうか?
どうせ証拠がないのであれば、思弁的な手続きによって全く新しい神話を生み出す権利は万人が有している。やってみよう。僕が生み出したいのは、もちろん労働に関する神話である。
■労働が生まれた日はいつなのか?
まず労働と呼ぶに値する現象が先に誕生し、それを名付けるに値する普遍的な現象であると判断した誰かが労働なる概念を導出した。あらゆる概念と同様に、このようなプロセスを踏んで、労働は誕生しているはずだ。
自らの意志に反して作業を強いられている。この感覚が労働概念を要請する。逆に言えば自らの意志で行為していると感じるとき、労働概念が必要とされることはない。
獲物を追いかけるライオンやダムを建設するビーバーには労働概念は当てはまらないだろうし、それは鹿や芋を求めてぶらつく狩猟民や、気まぐれに畑の美しさを競い合う国家なき農耕民にとっても同様だった(彼らはそれらの行為を「遊び」や「踊り」と同じ単語で表現していた)。
労働という現象が生まれたのは、誰かが作業を強制された瞬間であった。しかし、それが持続するかどうかはまた別の問題である。1度や2度、気まぐれに誰かの強制に伏することと、人生の大半の時間を強制された作業に従事することとでは、まったく異なる。
前者は不完全な労働の断片に過ぎず、このような状況が散見される程度であったなら労働概念をわざわざ拵える必要はなかっただろうし、同時に労働という現象の完全な誕生とは言い難い。ということは、完全な形での労働現象が誕生したのは、誰かが誰かの人生をまるっきり支配したあとだったはずだ。
それは一般的に奴隷と呼ばれる存在が誕生する瞬間でもある。ボブ・ブラックが指摘した通り、労働者とはパートタイムの奴隷である。ゆえに労働の誕生とは奴隷の誕生なのだ。
■奴隷の誕生だけでは現代の労働概念が完成しない理由
奴隷による行為は紛れもなく労働である。つまり現象としての労働は誕生している。
しかし、おそらく奴隷が誕生しただけでは労働概念は誕生しなかったか、存在していたとしてもほとんど「監禁」と同じ意味で使用されていたではないだろうか(フランス語で労働を意味するトラバーユは「監禁」といった語源に由来する)。
どういうことか?
先述の通り、労働概念を丁寧に紐解いていけば、その中心部分には「強制」が存在することは明らかである。しかし、一般的にはそのように考えられていない。労働概念は「社会や生命の維持に必要な価値を生み出す活動」などといった漠然とした意味で包み込まれている。このように、中心部にある「強制」という意味を包み込み曖昧化した総体こそが、現代の労働概念であり、完全な労働概念である。
つまり、労働概念を成り立たせるには、「強制されるべき苦行」と「社会や生命の維持作業」とがイコールで接続される価値観が必要だった。「その作業は強制されなければ誰もやりたがらないし、やるのだとすれば常に苦痛である」「労働が苦痛であると感じられる理由は、それが社会や生命の維持作業だからだ」といった感覚が労働概念を下支えしている。
おそらく初期の奴隷はその価値観を抱いてはいなかった。
なぜか? 彼が労働概念を知らない社会で生きていて、ある日奴隷として連れ去られたのだと仮定しよう。彼は強制されることなく社会や生命を維持する方法を知っているがゆえに、「強制されるべき苦行」と「社会や生命の維持」を結び付けて思考することはなかったはずだ。彼は自らの苦痛の理由を鎖と槍に支配されていることそのものによって説明したに違いない。
つまり、労働概念が完全な形で誕生するには時代が次のフェーズに進む必要があった。
■貨幣による労働の誕生
はじめは奴隷は暴力によって縛り付けられた。だが、暴力で縛り付けることは支配者にとって思いの外骨が折れることがわかった。次に支配者は作業の対価として貨幣(国家の負債として)を渡してみて、それにより動機づける方法を試してみた。すると暴力を動員する必要性が減った。気づいたら、貨幣はあちらこちらで流通し始めた。
この時点で、貨幣を発明した者が想定したシナリオから大きく逸脱していることは間違いない。強制労働をオブラートに包むための装置が独り歩きを始めたのだ。
そのとき生じた貨幣の最も重大な副作用は貸し借り概念の増強であろう。もしかするとそれまでも貸し借り概念は存在していたかもしれないが、貨幣の誕生まではさほど人々にとって重要な概念ではなかったはずだ。なぜなら、人は他者への自発的な貢献によって脳内に快楽物質を分泌し満足感を得るからである。あらゆる行為が自発的であったなら、理論上、貸し借り概念は登場する機会は少ない。
(ただし、他者への危害を償う方法として、貨幣に類似する装置は古くから誕生していた。が、それは社会や生命の維持とはまったく別の文脈で使用されていた。強制がない社会であれば、日常的な食料や家、衣服の生産は、貸し借りの概念とほとんど無縁だったはずである。)
貨幣は貢献する者と貢献される者をくっきりと分断する。これまでは曖昧であり意識されることが少なかった貢献と被貢献の関係が厳格に振り分けられ、さらにそれが明確に数値化されることによって、確固たる貸し借りの概念を人々の脳内に植え付けた(ニーチェは「負い目」や「義務」という概念の発祥地は債務法であると主張している。本当かどうかは知らないが)。
そして、貸し方に社会や生命を維持するための貢献活動を書き込み、借り方に貢献活動の享受や消費を書き込む思考形式を生み出した。つまり、この時点で貢献活動が「できればやりたくないもの」としてイメージされるようになったのだ(言い換えれば人間が怠惰であると定義づけられたのだ)。つまり労働概念が完全な形で誕生したのは、貨幣誕生の後である。
(暴力によって支配されている初期の奴隷も、おそらく貸し借りの概念を抱いていなかったはずだ。なるほど「命を負っている」という形で奴隷の状況を貸し借りの概念に回収する言説を知らないではない。だが、それは貨幣によって貸し借りの概念が増強された後に、逆輸入されたのだろう。)
■労働による支配の完成
ここまでくれば、人々は労働の必要性を疑うことはなくなる。労働という言葉を見たとき人は「強制された作業」ではなく「社会や生命の維持のために必要な作業(であるがゆえに苦痛である作業)」をイメージするようになった。つまり支配が必要であると人々は納得してしまったのだ。
アンチワーク哲学が「労働を撲滅する」などと主張した際に嘲笑されるのは、このことが原因である。誰もが「人間は怠惰であり、社会や生命の維持に必要な作業を行う者などいない」という支配者に都合のいいプロパガンダを内面化してしまった。もちろん、そのプロパガンダをはじめて口にした人物はとっくの昔に死んでいる。そのためプロパガンダがプロパガンダと気づかずに誰もが口にしているのである。
そしてこのプロパガンダを疑える者はほとんどいなくなった。日常的な体験や心理学者の実験がそれを否定する証拠をいくらつきつけようと、それは微動だにしない。他者への貢献に喜びを感じている人を見かけても、「所詮は自分の利益のため」と強引に解釈し人間の怠惰性を信仰する態度をくずさないか、あるいは例外的な人格者として崇めたてるのだ。
結果として生命や社会の維持活動が楽しいものであるという知的枠組みは存在せず、その事実は上手く処理されずに垂れ流しになっているのである。
もちろん、そこに知的枠組みを提供しようとするのがアンチワーク哲学である。アンチワーク哲学は人間には食欲や性欲、睡眠欲、名誉欲、金銭欲なと同等のレベルで持つ貢献欲という概念を創造した。自発的に他者に貢献する人物を見かけたときに「それは彼の貢献欲のおかげだ」と知的に回収する枠組みがようやく誕生したのである。
また、力への意志という概念も提示した。自己の能力を増大させ、発揮したいと感じるエネルギーである。これは人は放っておかれたならば、なんらかの行為を追求し、なんらかの能力の増大を図るという普遍的に観測される事態を回収できる知的枠組みである(これまでの社会にはこれを上手く回収できる概念がなく「練習して偉いわねぇ」と、奇跡的に素晴らしいモチベーションを備えたエリートによる例外的事態であると解釈される)。
この二つを組み合わせれば、人間は他者への貢献を欲し(もちろん他者への貢献以外も欲し)、かつその能力を増大させていくことに動機づけられていること理解できる。逆に他者へ貢献せず、能力の成長もないような人生が苦痛であることも理解できる(もちろんこのことは、心理学者はとっくに発見しているが、たんにそれを受容できる知的枠組みがないか、せいぜい自己啓発本の中に「お前たちも貢献をするのだ!」と説教がましく書かれる程度だったのだ。その結果「ニートはだらだら過ごせて羨ましいよ」などという的外れな嫌味がはびこるのである)。
もちろん、貢献欲や力への意志が抑圧されているのは、強制によってそこへ向かう行為が労働化させられているからである。命令はあらゆる行為を労働化する(このことも心理学者はとっくに発見している)。ならやらなければならないのは、命令の骨抜きである。それは言い換えれば労働の撲滅である。
■まとめ
労働現象は奴隷と同時に誕生し、労働概念は貨幣の後に誕生した。その結果、人の貢献欲や力への意志は視界から追いやられ、人間は怠惰な存在へと貶められた。本来、人間は他者へと自発的に貢献せずにはいられない生き物であり、支配がなくとも社会を成立させるだけの貢献を引き出すことができた。そうである証拠は無数に存在する者の、それを認識する知的枠組みが存在しなかったために、人々は「人間は怠惰である」という神話的プロパガンダを信じ切っている。
これこそが、現代社会に新しく打ち立てるべき神話である。
繰り返すが、労働者とはパートタイムの奴隷である。彼が奴隷と呼ばれているかどうかは、あまり重要ではない。槍と鎖で縛り付けられているか、税と城壁で縛り付けられているか、税と囲い込みの結果によって縛り付けられているかは、程度の差でしかないのだ。
だから、奴隷制を完全に破壊するなら、労働をすべて破壊しなければならない。そのときにまず破壊すべき価値観は「人は誰かに支配され、強制されなければ生きていけない。社会は成り立たない」という思い込みである。
誰もこの前提を疑えずにいる。ボブ・ブラックも言うように、イデオロギー闘争の大半は「誰が権力を握るか?」という議論でしかない。権力そのものを疑う人はいないのである。
マルクス主義者は官僚がボスになるべきであると考える。リバータリアンは実業家がボスになるべきだと考える。フェミニストは、ボスが女性でありさえすれば、どちらだろうとお構いなし。こうしたイデオロギー屋の違いは、権力のもたらす利権をどうやって分配するかという点にしかないことは明らかである。誰も権力自体に対しては疑問を持たないし、彼ら全員が、我々に労働を続けさせようと考えていることも、同じように明白だろう。
しかし、支配や権力を必要とするのは支配される者ではなく、支配する者なのだ(マキャベリはそのことをよく知っていた。『君主論』は略奪していることをごまかすための方法について、恥じ入ることなく懇切丁寧に説明した本なのだ)。
労働を撲滅しよう。権力や支配を撲滅しよう。仮に一世代や二世代でそれが実現できなくても構わない。しかし、遅かれ早かれ人類が向かうべきステージであることは疑いようがない。