アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

労働が生まれた日

経済は物々交換から始まった。万人による闘争を抑え込むために人々は国家という社会契約を結んだ。人間は農業という禁断の果実をかじった結果、狩猟採集生活というエデンの園から放り出された。

こうした神話は想像によって生み出されていて、実際の根拠はないどころか、そのほとんどが反証されている。とはいえ、最新の考古学や人類学の知見を目ざとくチェックする人物など全体の1%にも満たず、神話のイメージはいまだに人々の想像力を支配している

その結果、社会は停滞している。社会に必要な変革を起こすためには、人々の価値観の変革が必要であることは自明である

しかし、先述の通り価値観の根底にある神話は理論上は否定されていたとしても、現実的に根絶されているわけではない。

なら、アプローチを変えてみてもいいのではないか? 熱心に神話を否定してみるよりも、新しい神話を生み出してみてはどうか?

どうせ証拠がないのであれば、思弁的な手続きによって全く新しい神話を生み出す権利は万人が有している。やってみよう。僕が生み出したいのは、もちろん労働に関する神話である。

 

 

■労働が生まれた日はいつなのか?

まず労働と呼ぶに値する現象が先に誕生し、それを名付けるに値する普遍的な現象であると判断した誰かが労働なる概念を導出した。あらゆる概念と同様に、このようなプロセスを踏んで、労働は誕生しているはずだ。

自らの意志に反して作業を強いられている。この感覚が労働概念を要請する。逆に言えば自らの意志で行為していると感じるとき、労働概念が必要とされることはない。

獲物を追いかけるライオンやダムを建設するビーバーには労働概念は当てはまらないだろうし、それは鹿や芋を求めてぶらつく狩猟民や、気まぐれに畑の美しさを競い合う国家なき農耕民にとっても同様だった(彼らはそれらの行為を「遊び」や「踊り」と同じ単語で表現していた)。

労働という現象が生まれたのは、誰かが作業を強制された瞬間であった。しかし、それが持続するかどうかはまた別の問題である。1度や2度、気まぐれに誰かの強制に伏することと、人生の大半の時間を強制された作業に従事することとでは、まったく異なる。

前者は不完全な労働の断片に過ぎず、このような状況が散見される程度であったなら労働概念をわざわざ拵える必要はなかっただろうし、同時に労働という現象の完全な誕生とは言い難い。ということは、完全な形での労働現象が誕生したのは、誰かが誰かの人生をまるっきり支配したあとだったはずだ。

それは一般的に奴隷と呼ばれる存在が誕生する瞬間でもある。ボブ・ブラックが指摘した通り、労働者とはパートタイムの奴隷である。ゆえに労働の誕生とは奴隷の誕生なのだ。

■奴隷の誕生だけでは現代の労働概念が完成しない理由

奴隷による行為は紛れもなく労働である。つまり現象としての労働は誕生している。

しかし、おそらく奴隷が誕生しただけでは労働概念は誕生しなかったか、存在していたとしてもほとんど「監禁」と同じ意味で使用されていたではないだろうか(フランス語で労働を意味するトラバーユは「監禁」といった語源に由来する)。

どういうことか?

先述の通り、労働概念を丁寧に紐解いていけば、その中心部分には「強制」が存在することは明らかである。しかし、一般的にはそのように考えられていない。労働概念は「社会や生命の維持に必要な価値を生み出す活動」などといった漠然とした意味で包み込まれている。このように、中心部にある「強制」という意味を包み込み曖昧化した総体こそが、現代の労働概念であり、完全な労働概念である。

つまり、労働概念を成り立たせるには、「強制されるべき苦行」と「社会や生命の維持作業」とがイコールで接続される価値観が必要だった。「その作業は強制されなければ誰もやりたがらないし、やるのだとすれば常に苦痛である」「労働が苦痛であると感じられる理由は、それが社会や生命の維持作業だからだ」といった感覚が労働概念を下支えしている

おそらく初期の奴隷はその価値観を抱いてはいなかった。

なぜか? 彼が労働概念を知らない社会で生きていて、ある日奴隷として連れ去られたのだと仮定しよう。彼は強制されることなく社会や生命を維持する方法を知っているがゆえに、「強制されるべき苦行」と「社会や生命の維持」を結び付けて思考することはなかったはずだ。彼は自らの苦痛の理由を鎖と槍に支配されていることそのものによって説明したに違いない。

つまり、労働概念が完全な形で誕生するには時代が次のフェーズに進む必要があった。

■貨幣による労働の誕生

はじめは奴隷は暴力によって縛り付けられた。だが、暴力で縛り付けることは支配者にとって思いの外骨が折れることがわかった。次に支配者は作業の対価として貨幣(国家の負債として)を渡してみて、それにより動機づける方法を試してみた。すると暴力を動員する必要性が減った。気づいたら、貨幣はあちらこちらで流通し始めた。

この時点で、貨幣を発明した者が想定したシナリオから大きく逸脱していることは間違いない。強制労働をオブラートに包むための装置が独り歩きを始めたのだ。

そのとき生じた貨幣の最も重大な副作用は貸し借り概念の増強であろう。もしかするとそれまでも貸し借り概念は存在していたかもしれないが、貨幣の誕生まではさほど人々にとって重要な概念ではなかったはずだ。なぜなら、人は他者への自発的な貢献によって脳内に快楽物質を分泌し満足感を得るからである。あらゆる行為が自発的であったなら、理論上、貸し借り概念は登場する機会は少ない。

(ただし、他者への危害を償う方法として、貨幣に類似する装置は古くから誕生していた。が、それは社会や生命の維持とはまったく別の文脈で使用されていた。強制がない社会であれば、日常的な食料や家、衣服の生産は、貸し借りの概念とほとんど無縁だったはずである。)

貨幣は貢献する者と貢献される者をくっきりと分断する。これまでは曖昧であり意識されることが少なかった貢献と被貢献の関係が厳格に振り分けられ、さらにそれが明確に数値化されることによって、確固たる貸し借りの概念を人々の脳内に植え付けた(ニーチェは「負い目」や「義務」という概念の発祥地は債務法であると主張している。本当かどうかは知らないが)。

そして、貸し方に社会や生命を維持するための貢献活動を書き込み、借り方に貢献活動の享受や消費を書き込む思考形式を生み出した。つまり、この時点で貢献活動が「できればやりたくないもの」としてイメージされるようになったのだ(言い換えれば人間が怠惰であると定義づけられたのだ)。つまり労働概念が完全な形で誕生したのは、貨幣誕生の後である。

(暴力によって支配されている初期の奴隷も、おそらく貸し借りの概念を抱いていなかったはずだ。なるほど「命を負っている」という形で奴隷の状況を貸し借りの概念に回収する言説を知らないではない。だが、それは貨幣によって貸し借りの概念が増強された後に、逆輸入されたのだろう。)

■労働による支配の完成

ここまでくれば、人々は労働の必要性を疑うことはなくなる。労働という言葉を見たとき人は「強制された作業」ではなく「社会や生命の維持のために必要な作業(であるがゆえに苦痛である作業)」をイメージするようになった。つまり支配が必要であると人々は納得してしまったのだ。

アンチワーク哲学が「労働を撲滅する」などと主張した際に嘲笑されるのは、このことが原因である。誰もが「人間は怠惰であり、社会や生命の維持に必要な作業を行う者などいない」という支配者に都合のいいプロパガンダを内面化してしまった。もちろん、そのプロパガンダをはじめて口にした人物はとっくの昔に死んでいる。そのためプロパガンダプロパガンダと気づかずに誰もが口にしているのである。

そしてこのプロパガンダを疑える者はほとんどいなくなった。日常的な体験や心理学者の実験がそれを否定する証拠をいくらつきつけようと、それは微動だにしない。他者への貢献に喜びを感じている人を見かけても、「所詮は自分の利益のため」と強引に解釈し人間の怠惰性を信仰する態度をくずさないか、あるいは例外的な人格者として崇めたてるのだ。

結果として生命や社会の維持活動が楽しいものであるという知的枠組みは存在せず、その事実は上手く処理されずに垂れ流しになっているのである。

もちろん、そこに知的枠組みを提供しようとするのがアンチワーク哲学である。アンチワーク哲学は人間には食欲や性欲、睡眠欲、名誉欲、金銭欲なと同等のレベルで持つ貢献欲という概念を創造した。自発的に他者に貢献する人物を見かけたときに「それは彼の貢献欲のおかげだ」と知的に回収する枠組みがようやく誕生したのである。

また、力への意志という概念も提示した。自己の能力を増大させ、発揮したいと感じるエネルギーである。これは人は放っておかれたならば、なんらかの行為を追求し、なんらかの能力の増大を図るという普遍的に観測される事態を回収できる知的枠組みである(これまでの社会にはこれを上手く回収できる概念がなく「練習して偉いわねぇ」と、奇跡的に素晴らしいモチベーションを備えたエリートによる例外的事態であると解釈される)。

この二つを組み合わせれば、人間は他者への貢献を欲し(もちろん他者への貢献以外も欲し)、かつその能力を増大させていくことに動機づけられていること理解できる。逆に他者へ貢献せず、能力の成長もないような人生が苦痛であることも理解できる(もちろんこのことは、心理学者はとっくに発見しているが、たんにそれを受容できる知的枠組みがないか、せいぜい自己啓発本の中に「お前たちも貢献をするのだ!」と説教がましく書かれる程度だったのだ。その結果「ニートはだらだら過ごせて羨ましいよ」などという的外れな嫌味がはびこるのである)。

もちろん、貢献欲や力への意志が抑圧されているのは、強制によってそこへ向かう行為が労働化させられているからである。命令はあらゆる行為を労働化する(このことも心理学者はとっくに発見している)。ならやらなければならないのは、命令の骨抜きである。それは言い換えれば労働の撲滅である。

■まとめ

労働現象は奴隷と同時に誕生し、労働概念は貨幣の後に誕生した。その結果、人の貢献欲や力への意志は視界から追いやられ、人間は怠惰な存在へと貶められた。本来、人間は他者へと自発的に貢献せずにはいられない生き物であり、支配がなくとも社会を成立させるだけの貢献を引き出すことができた。そうである証拠は無数に存在する者の、それを認識する知的枠組みが存在しなかったために、人々は「人間は怠惰である」という神話的プロパガンダを信じ切っている。

これこそが、現代社会に新しく打ち立てるべき神話である。

繰り返すが、労働者とはパートタイムの奴隷である。彼が奴隷と呼ばれているかどうかは、あまり重要ではない。槍と鎖で縛り付けられているか、税と城壁で縛り付けられているか、税と囲い込みの結果によって縛り付けられているかは、程度の差でしかないのだ。

だから、奴隷制を完全に破壊するなら、労働をすべて破壊しなければならない。そのときにまず破壊すべき価値観は「人は誰かに支配され、強制されなければ生きていけない。社会は成り立たない」という思い込みである。

誰もこの前提を疑えずにいる。ボブ・ブラックも言うように、イデオロギー闘争の大半は「誰が権力を握るか?」という議論でしかない。権力そのものを疑う人はいないのである。

マルクス主義者は官僚がボスになるべきであると考える。リバータリアンは実業家がボスになるべきだと考える。フェミニストは、ボスが女性でありさえすれば、どちらだろうとお構いなし。こうしたイデオロギー屋の違いは、権力のもたらす利権をどうやって分配するかという点にしかないことは明らかである。誰も権力自体に対しては疑問を持たないし、彼ら全員が、我々に労働を続けさせようと考えていることも、同じように明白だろう。

ボブ・ブラック『労働廃絶論』

しかし、支配や権力を必要とするのは支配される者ではなく、支配する者なのだマキャベリはそのことをよく知っていた。『君主論』は略奪していることをごまかすための方法について、恥じ入ることなく懇切丁寧に説明した本なのだ)。

労働を撲滅しよう。権力や支配を撲滅しよう。仮に一世代や二世代でそれが実現できなくても構わない。しかし、遅かれ早かれ人類が向かうべきステージであることは疑いようがない。