アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

行為と労働に関する考察

先日書いた記事にとある質問をいただいたことが、この記事の執筆のきっかけである。

僕はベーシックインカムが実現した未来の世界において、金の必要性に関しての議論が活発化すると見込んでいる。即座に金が廃絶されるとは思わないものの、金が本当に必要かどうか、議論がスタートするはずである。僕は人類社会は最終的に金と決別することが可能だろうという見立てを、この記事で示した。

それに対する質問が以下である。

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2は一旦置いておく。1と3は要約すれば「本当に人は金という強制力がなくなっても働くの?」という質問である。

僕はこう返した。

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つまり「なぜ働かないと感じるのか?」という問い返しである。

続くやり取りはこうである。

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つまるところ犯罪組織罪務省さん(すげぇイカした名前だw)の主張は、「農業などの社会インフラを担う仕事はきつい」「それをやってもらうには金でモチベーションを高めるしかない」というものである。同時に「金というインセンティブが働かないなら、少なくとも社会が必要とするものを生産することは不可能だろう」という指摘も含まれていると思われる。

まず第一に断らないといけない点は「未来は誰にもわからない」という点である。僕の話は確実なデータをそろえた未来予測ではない。もちろん、「働かない」という未来予測にも確実性はない。

僕がやりたいことは、確実性について議論することではない。

人間は自発的に必要な量の農作業をするはずがない」という前提を成り立たせている価値観の揺さぶりである。こうした価値観は確固たる事実を装って社会に通底しているが、論理的に検証していけば、脆弱な基盤であり、思い込み・イデオロギーに過ぎないことが明らかになる。

さて、それではまず現代の社会を維持する仕事が苦痛である(と想定される)理由について考えなければならない。

※もっとも犯罪組織罪務省さんは「人は全く農業をやらない」と主張しているわけではなく、あくまで「必要な量の生産には届かない」という主張なので(たぶん)、その点は忘れないようにしつつも、便宜上、少し極論じみた返答を行う可能性もある。その点はご了承いただきたい。

■労働はなぜ苦痛なのか?

※労働はやりがいがあって苦痛ではない派の意見は後程解決されるので、ここではスルーしてほしい。

まず通俗的な意見をいくつか取り上げて考察したい。

・肉体的な負担に由来するのか?

この点は少し考えるだけで決定的な要因ではないことがわかる。明らかに肉体的負荷の高い登山やジョギングに自ら進んで取り組む人は後を絶たないが、彼らがそれを苦痛だと感じているとは考えられないからだ。

また、少し思考実験をしてみてもいい。4時間ほどヨギボーに座ってなにもせずひたすら空白のエクセルを見つめる仕事があったとすればその仕事の肉体的負荷はほぼゼロである。それに対して4時間ほどウーバーイーツの配達をこなす仕事があれば明らかに後者の方が肉体的負荷はかかる。が、この2つの仕事をまったく同じ給料で提示されて、前者を選ぶ人は少ないように思われる。なにもせずじっと過ごすくらいなら、あくせくと牛丼やハンバーガーを運ぶ方が気が紛れると多くの人は感じるのではないだろうか(仮に彼が前者を選んだとしても、退屈に耐えきれず後悔する可能性が高いように思われる)。

もちろん、あまりにも過度な肉体的負荷は苦痛になるだろう。だが、肉体的負荷のみに労働が苦痛である原因を求めることはできないことは明らかである。

・生きるために必要だから苦痛なのか?

これも決定的な要因ではないことがわかる。なぜなら、食事は生きるために必要な行為であるにもかかわらず、多くの人が食事を喜びであると感じているからである。

・金のための活動だから苦痛なのか?

これも違う。なぜなら、パチンコや競馬を苦痛だと感じる人は稀だからである。また、奴隷の労働は苦痛であるケースが多いが、彼らにはその対価は支払われない。つまり、金のための活動だから労働が苦痛であるという発想は誤りである。

・人間関係のせいで苦痛なのか?

これは比較的妥当な説明であるように思われる。嫌いな同僚や上司と働くことは労働を惨めなものにする要因の1つだ。だが、これも決定的とも言えない。なぜなら、同僚や上司は嫌いではないが、仕事が苦痛である状況は存在するように思われるからである。

・作業量の多さによって苦痛になるのか?

これもある程度は妥当だが、完全な説明ではない。なぜなら、24時間ぶっ通しでゲームをすることを苦痛と感じない人もいるし、3時間のバイトで鬱になる人もいるからである。

・では、なぜ苦痛なのか?

労働が苦痛である理由は、これらの複合的な要因であるという歯切れの悪い結論しか得られないのか?

そうではない。労働が苦痛である理由は、たった1つの因子で説明することが可能である。

これまで繰り返し主張してきたわけだが、アンチワーク哲学では労働の苦痛は強制によって引き起こされると考える。これはほとんどトートロジーである。心の底から苦痛であると感じる行為を継続するのは強制されているという理由以外に考えづらい。なぜなら、強制されていないならその行為をやるはずがなく、強制されずやっているなら本人にとって決定的に苦痛ではないと考えられるからである。

これは先述の説明不足の多くをカバーできる。長時間労働が辛いと感じる傾向にあるのはそれを拒否できない(強制されている)からであり、過度な肉体的負担が辛いと感じる傾向にあるのはそれを拒否できない(強制されている)からである。また、人間関係に不満を感じてもその職場を離れられないのは強制されているからだと考えて差し支えあるまい。

もちろん「強制」という言葉にも注意書きは必要である。厳密な意味で労働とは強制されているわけではないし、そもそもこの世界に厳密な意味での強制はほとんど存在しないからだ(誰かの腕を掴んで力づくでコーヒーを淹れさせるくらいなら、自分で淹れた方が楽なのは明らかである)。

たしかにクビを覚悟すれば労働しないことは可能である。しかし多くの人はクビになることは望まない。ゆえに人は労働を強制されている(あるいは逃れられない)と多かれ少なかれ感じるはずである。主観的に「強制されている」と感じていることが、苦痛の原因である。

そしてこの現象は逆の向きからも生じる。本来ならやりたいと思える行為であっても、金や拳銃をちらつかせながら「やれ」と命令されれば苦痛と化す。このことは親からゲームを命令される子どもがどんなふうに感じるかを想像すれば明らかだろう。

もちろん、はじめは強制されていると感じていたとしても、取り組んでいるうちにその行為に納得感を抱く場合もある。それは緩やかに強制されているとは言え、完全な意味で強制されているとは言えないし、さほど苦痛ではなくなっている(トイレは事実上強制されているが、納得感を抱いているがゆえに、強制されていると感じないのと同じである)。とはいえ、彼の目の前にそこから逃れる現実的な選択肢が現れたなら、まず間違いなくそこから逃れるであろうと思われるがゆえに、それは少なからず強制されていると考えるのが妥当である。

■自発的に行為するとはどういう状況か?

強制されていれば苦痛である。逆に、強制されていないなら苦痛ではない。強制の逆は自発である。つまり自分の意志で行為していると感じるなら、人はその行為を苦痛を感じる可能性は低い。

なぜなら、もし彼にとって致命的に苦痛である行為があったとすれば、強制されているのでもない限り、彼はその行為を中止するはずだからである(彼が一時的に苦痛を感じてもその作業を継続することはあり得るが、その苦痛は彼が乗り越えるに値する苦痛であると判断しているから継続していると考えられる。ゆえに、それは決定的な苦痛であるとは言い難い)。

言い換えれば、自発的な行為で成り立つ社会には致命的な苦痛の多くは存在しないと考えられる。

では、自発的に行為するとはどのような状況か?

・意味のある変化の追求

人が自発的に行為するときは、その行為に意味を感じているはずである。なぜなら意味を感じないのであれば、その行為を開始するとは考えられないからである。「楽しい」という意味を感じられるから人はゲームをやるし、「美味しい」「満足感を味わえる」という意味を感じるから人は食事を摂る。あるいは「相手に喜んでもらう」という意味のためにプレゼントを用意したり、電車で席を譲ったり、ライターを貸したりする。

行為とは変化を起こすことである。つまり、人は世界に意味のある変化を起こすことを欲望し、その行為に自発的に取り組む。

もちろんこれも完全に自発的であるわけではない。そもそも完全に自発的な行為など存在しないことは少し考えればわかる(人は常に世界から影響を受けて行為する)。だが、「ライターを貸してほしい」と言われたから貸す場面で「強制された」と感じる人は稀である。人はその行為に関して納得し意味を感じる(この場合は、見ず知らずの他者への親切に意味を感じていると考えられる)から人は貸す。そうでないのなら断るはずなのだから(見ず知らずの他人に嫌われたところで彼にデメリットはないように思われる)。

逆に言えば、嫌いな上司の命令に渋々従うときも「クビにならない」という意味を追求しているとみなすことはできる。しかし、彼は自発的に行為したとは感じていない。それは明らかにその行為に納得感を抱いていないからである。

つまり、このように言うことができる。行為への納得度が高いとき、人は意味を感じ、自発的に行為していると感じる

そして、その行為の満足度は高いと考えられる。なぜなら、世界に意味のある変化が起きた際に感じる感情こそが「満足」だからである。

・自分に裁量があると感じている

例えば請われてライターを貸すシーンで、「左手でライターを持ち右手を添えて渡してほしい」などと指図されたなら人はどのように感じるだろうか?

おそらく自発的な行為であるとは感じづらくなるはずである。もしそこに合理的な理由(受け取り手が右手を骨折している上に右手の指が欠けていて、手を添えて右から差し出されたものしか受け取れないなど)があるなら納得感は維持される場合もあるが、不当に指図をされたと感じたなら人は自発性を損なうと考えられる。マイクロマネジメントをする上司が嫌われるのはこれが理由だろう。

もちろん、作業者のスキルが著しく欠けていて、細かい指示が必要であることが明らかな場面もある。その場合、当人は指示の必要性に納得しており、自発性を損なう感覚は比較的弱いと思われる。だが、明らかに指示が過剰である場合は、彼は不満を抱く。

つまり、自分の意志で納得して行為しているという感覚は、他者からの指図によって崩れ去るデリケートな感覚である。なぜなのか?

指図とは、分断され、連続する要請である。先述の通り、要請とは「ライターを貸してください」と言われたときのように自発的な意味として解釈される場合もあるが、その要請に納得感を抱いていない場合は強制されたと解釈される可能性が高い。つまり、指図に妥当性がある場合は納得感を抱き自発的な意味として解釈されるが、指図に妥当性がないと感じられる場合は自発的な意味として解釈しづらい。

つまり、こう言い換えることができる。人は自らの能力に見合うと感じる裁量を持つことを欲する。そのとき人は自発的に行為していると感じ、世界に意味のある変化をもたらすことをるはずである。

・中断できると感じている

彼がそこまで乗り気ではない行為を他者から要請され、乗り気ではないものの、取り組んだ結果その行為に満足感を抱く可能性を信じて取り組む可能性はある。そこで結果的に満足感を抱けなかった場合、彼は短期的に見た時には強制されたと感じるかもしれない。だが、その作業を次回以降も強制されるのでない限り、長期的にみたときには自発的な意志に基づいていると彼は感じるはずである。なぜなら、その行為を通じて満足感を抱くかどうかを彼が事前に確認することは不可能であるがゆえに、他者の強制に身を委ねることの妥当性を彼は一定程度認めているはずだからである。しかし、明らかに苦痛であると判断された行為を次回以降も強制される場合は、彼は自発的な行為であるとは感じないはずだ。

ゆえに、他者の強制に身を委ねる場合でも、中断できると感じていることが自発的な意思決定に欠かせないのである。

■意味のある変化を達成できない場合はどう感じるか?

・諦めるパターン

彼が世界に意味のある変化を起こそうと行為した場合でも、彼の能力が不足しており、望んだ変化を得られない場合もある。そのとき、彼は自発的に行為しているにもかかわらず、苦痛を感じる可能性はある。だが、それを中断できる場合は、彼の苦痛は継続することはない。

・諦めるパターンが連続する場合

もちろん、諦めるパターンを繰り返した場合、彼は自分の能力不足を痛感し、自己嫌悪に陥り、苦痛を感じる可能性が高い。彼はその状況を避けるために、全くチャレンジすることを避ける場合もある。だが、その状況も長くは続かない可能性が高い。なぜなら、何も為さない状況はあまりにも人間にとって苦痛だからである。引きこもりニートや趣味のない定年退職後のサラリーマン、独房の囚人が苦痛を感じる理由はこれである。苦痛であるということは、彼はその状況を抜け出そうと、周囲のアドバイスを求めたり、自分で情報収集をしたり、別の行為にチャレンジしたり、努力をする可能性が高い。もちろん、全く努力が実らないパターンや、努力しないパターンもあり得るが、依然として彼は苦痛を感じ続けるはずであり、常に努力をするように彼は動機づけられるはずである(もちろん彼が袋小路から死ぬまで抜け出せない可能性は排除されない)。

・努力が実る場合

アドバイスや情報収集、別の行動パターンの模索により、彼が意味のある変化を起こす能力を増大させ、それに成功した場合、彼は満足感を抱く。先述の通り、意味のある変化が起きたときに感じる感情こそが満足感だからである。

そのとき彼は(場合によっては一定の休息の後)その行為を繰り返すか、より能力の増大が必要な行為、あるいはまったく別の行為にチャレンジする可能性が高い。彼は満足を何度も味わいたいと考えるか、多様な満足感を味わいたいと考えるか、より大きな満足を味わいたいと考えるはずだからである(先述の通り、そうでない人生は苦痛である)。もちろん、どのような行為に取り組むかは彼の性格によって異なる。しかし、いずれにせよ人はいずれかの行為に動機づけられていることは間違いない。

・やる気が出ない場合

意味を認めながらもその行為に取り組む意欲がわかない場合もある。だがその場合は、彼はその行為に取り組まない状況に苦痛を感じていることは明らかであり、行為に向けて強烈に動機づけられていることになる。それでもやらない場合は、もはやその行為に対する意味は喪失されており、おそらく彼は別の行為に向かっているはずである。いずれにせよ、人はなんらかの意味に向かって行為することは間違いない。

■人はなにに意味を感じるか?

この記事の主目的は、「人が社会の維持に必要な行為にモチベートされるかどうか」である。つまり、自由な人が、社会を維持する農業や電気工事に対して意味を感じ、十分なモチベーションをいだくのか?という点について考察しなければならない。

とはいえ、この問題に関しては確実なことは何も言えない。文化的な影響が大きすぎるからである。街中の女性をナンパすることに意味を感じる場合もあれば、自己満足的なアート活動に意味を感じる場合、飢えた子どもに食事を与えることに意味を感じる場合もあるだろう。

とはいえ、大まかな素描程度は示したい。いくつかのパターンに分類して考察してみよう。

・自己満足的な意味を追求する場合

ひたすらゲームに没頭する。漫画を読む。ネットサーフィンをする。切手収集をするといった、ほとんど他者への貢献につながらないと考えられる自己満足的な行為に意味を感じる人もいるだろう。

しかし、完全に孤独に自己満足的な意味を追求し続けるケースは稀であると思われる。なぜなら人は社会的な種であり、完全な孤独に否定的な感情を抱く傾向にあるからである。つまり、(仮に彼が1日の大半を自己満足に費やすとしても)全く他者からの承認や他者への貢献を度外視して生きる状況は考えづらい。

また自己満足的な意味の追求だったものが承認や貢献に繋がる可能性もある。優れた椅子をつくりたいという個人的欲求に突き動かされた人物のつくった椅子に高い価値を感じる人が存在する可能性は十分にあるからである。

・他者への危害に意味を感じる場合

他者を傷つけることに意味を感じる場合も考えられるが、さほど多くはないと思われる。なぜなら人は他者へ危害を加えたときに罪悪感を覚える傾向にあるからである。そうでないなら、死刑執行人の大半が罪悪感を覚える事実や、犯罪者の大半(全員ではない)が自らの罪を悔いるという事実が説明できない。もちろん、これは後天的に与えられた文化的影響である可能性もあるが、現時点で他者への危害を低く評価する文化が、まったく逆にそれを高く評価する文化へと変化するシナリオは現実的ではないように思われる。

とはいえ、正義の感覚によって他者を傷つけることで意味を感じる可能性はある。道徳観が欠如している(ように見える)人物を攻撃し、彼を懲らしめたり改心させたりすることで、自らが世界に変化を与えた手応えを感じようとする人物はさほど少なくない。この問題はおそらくどのような社会においても残り続けると思われるが、ほかに熱中できる行為が存在する場合、このような行為に向かう人は減っていくと思われる。なぜなら、退屈を抱えた人物の方が、他者を道徳的に攻撃する傾向にあるからである。意味を感じる行為に主体的に取り組む経験に乏しい人物(意味を感じない労働を強いられているか、まったくなんの行為もしてきないニート)ほど、道徳的攻撃に加担しているであろうという推測はSNSを観察している限りでは妥当ではないかと思われる。ゆえに、社会全体として強制を撲滅し、多様な主体的行為の選択肢を解放することが、他者への攻撃を最小限に抑え込む処置として妥当であるように思われる。

・承認や貢献を求める場合

さて、人は多かれ少なかれ承認や貢献を求めるのだと仮定する。ならば、どのようにしてそれを追求するだろうか?

富や文化的資本の顕示。ポトラッチのような仰々しい贈与。社会に必要なインフラへの貢献。親戚のおばちゃんのようなおせっかい。プレゼント交換。様々な行為を通じて承認や貢献を手にしようとすると考えられる。

仮にまったく金のない世界が存在するとするならば、彼はまず自らや共同体の生命の維持に貢献すると考えるのは妥当である。なぜなら、社会的な生物種は共同体の存続を望み、それに向けて行為するからである。ゆえに、一定程度は、共同体への貢献に意味を感じ、実際に貢献しようとする人物は現れるはずである。

その貢献が共同体を存続するにあたって不足している可能性はある。だが、そのとき彼は他者へ協力を求めると思われる。拒否する者もいるが、同意する者は多いはずである。なぜなら、共同体の存続は誰にとっても死活問題であり、誰にとっても意味を感じる問題だからである。また、それは明らかに他者からの承認を得られる行為でもあり、他者への貢献でもある。ゆえに、共同体の維持のための努力に自発的に取り組む個人はさほど少なくないはずである。

現代社会において、孤独な自給自足生活で満足のいくライフスタイルを享受できる可能性は低い。誰もが他者との分業の必要性を感じるはずである。ならば、彼は意味に同意している可能性が高く、ゆえにその行為は自発的であり、苦痛を感じている可能性が低い。そして集団的に意味のある行為を成し遂げた場合、彼らは満足感を抱くことになる。もちろんそれが失敗する可能性もあるが、先述の通り、彼らは成功に向けて一定程度の努力を継続すると思われる。

もちろん、現代では組織化において金が一定の役割を果たしている事実は否定できない。ただし、強制により苦痛を取り除き主体的な行為によって組織化する方が、その人物が高いモチベーションで取り組むようになるのは明らかである。それに強制によって本来やりたいことすらやりたくなくなる傾向にあることは先述の通りである。

そして人間同士を組織化する方法の可能性は無数に存在し、金に頼らないシステムを考案することは可能である(WikipediaLinuxバーニングマンストーンヘンジティール組織など金に頼らないボトムアップ式のシステムで成し遂げられた偉業は少なくない)。ただし、最適な組織化方法は行為の種類によって異なると考えられるため、現時点ですべての行為を網羅する方法論を記述することはできない。それでも、人は組織化方法の考案についても意味を見出す可能性が高く、そのプロセスも主体的に取り組むはずである。なぜなら、明らかにそれは社会の存続に必要な行為であり、意味のある営みだと多くの人は感じるはずだからである。

■まとめ

さて、ここまでの議論を整理しよう。人は他者から強制されるのでない限り、自分の意志で世界に意味のある変化を起こすことを欲し、その能力を増大させることを欲する。それは自己満足的な意味である場合もあるが、共同体への貢献にも一定程度は向かうはずである。

しかし、現代社会では社会を成り立たせる労働は苦痛であると想定されている。これは命令によって労働が苦痛と化している考れば説明がつく。労働とは他者への貢献を命令するものであるとみなされている。ゆえに人は本質的に他者への貢献を嫌悪するかのように思い込まされているが、先述の通り命令されるのでない限りは人が他者への貢献や共同体の存続を(多かれ少なかれ)欲望することは明らかである。

命令が排除されたとき、人の欲望がどこへ向かうか予測することは不可能である。なぜなら、予測するためには命令に従わせる必要があるからである(もっとも命令したところで予測することは不可能であるが)。

命令の要素を弱めるのがベーシックインカムである。なぜなら、ベーシックインカムのある社会では会社をクビになっても路頭に迷うことはなく、他者からの命令を拒否する余地が生まれるからである。だが、ベーシックインカムの金額に満足できない場合、人は他者の強制に服する可能性もある。そのため、金が排除され、すべてが無料で提供される社会が理想的である。そうなれば理論上、誰も強制されないからである。

とはいえ、無料で提供される財やサービスに人々が満足できない可能性もある。だが、彼らはすでに自らの行為に満足感を抱いており、財やサービスの享受にさほど重きを置かないと考えられる。ゆえに、財やサービスの不足が起こる可能性は低いと思われる。

金による強制は人のモチベーションをさげる。おまけに社会全体として膨大な管理業務を生み出す。それを承知の上で、それでも金に頼るということは、自由な時間が膨大にあり、かつモチベーションがさがらなかったとしても人は社会の役に立つ行為にほとんど取り組むはずがないと考えているか、金に代わる社会の組織化方法を人間が考案できないと考えていることになる。これまでの考察の中で、いずれの懸念も妥当性が低いと考えられる。

※この記事が犯罪組織罪務省さんのコメントに対する回答になったかどうかは怪しい。というか、なっていないと思われる。これは回答ではなく、別角度の思考法の提示といったところだろうか。しかし、これもやむを得ない。社会に関する疑問が、一度のやり取りで解決することなどありえない。もし一度のやり取りで解決するなら、そのときに想い描かれているのは、独善的な支配でしかありえない。犯罪組織罪務省さんのコメントのおかげで僕は考察を深めることができた。僕の記事も彼(彼女?)にとって同じような存在であれば幸いである。