アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

「役に立つ」という概念を転換する

役に立つ」とはなにか? 究極的には「誰かの喜びを増やすこと」であり「誰かの悲しみを減らすこと」であるはすだ。

農家とは役に立っている仕事の代表例なわけだが、美味しい食べ物を提供することで僕たちを喜ばせている(または飢えという苦しみを減らす)という理由で役に立っている。

ドライバーはそれを運ぶことで役に立っているし、スーパーの店員はそれをお店に並べることで、料理人はそれを料理することで、ウェイターはそれを提供することで役に立っている。

ここでいう「喜びを増やす」「悲しみを減らす」とは必ずしも生存の必要性を満たすことだけを意味するわけではない。飯を食う行為は生き延びるためでもあるが、それ自体が喜びでもある。家族との団らんの時間でもあるし、友達との友情を育む時間でもある。もし、生存だけを目的にするのであれば僕たちは毎日ディストピア飯のような食事を、味集中カウンターのような場所で口にしているはずだ

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生存のために最低限必要なものは、そこまで多くない。60年風呂に入らず健康な人もいる。

完全なブレサリアンの存在が嘘が本当かわからないが、それでも現代人は食べ過ぎていて、1日1食でも死なないのは確かだ(僕はいっとき1日1食だったが極めて健康だった)。

つまり、「役に立つ」とは、生存の必要性を超えた何かである比率の方が高い。とりあえず「楽しい」とか「嬉しい」といった感情を生み出す行為は「役に立っている」という解釈で問題ないはずだ。

そして、喜びとはそれ自体が究極の目的であるとみなされている。なぜなら、そもそも「役に立つ」とは「〇〇の役に立つ」という文章で使用されるべきであるにもかかわらず、それが省略された場合は「喜び」が暗黙のうちに前提されているからである。

しかし、ここで不思議な現象が起きていることに気づかなければならない。それは1人で勝手に喜んでいる人に対して「役に立っている」という文章が使用されないことである。

1人で延々とペン回しをして楽しんでいる子どもや、1人でこっそりとオナニーする中学生をみて「うん、役に立つことをしていて偉いな!」と褒める大人は存在しない。

つまり、「役に立つ」とは、他人の喜びに対して使用される言葉なのだ。むしろ、自分自身を喜ばせる行為に没頭することは「役に立つ」の逆の印象を持って受け入れられる。ペン回しやオナニーはその好例だろう。そんなことばかりをしていたなら「もっと役に立つことをしなさい」と言われるに違いない。

とはいえこの風潮も理解できなくもない。農家は自家消費の野菜を作る場合よりも、何万人分の野菜を作ることで、何万人をも喜ばせている。そういう観点から言えば、自分1人だけではなく何万人を喜ばせた方が良いというのは理解できる。

しかし、それでも自分1人が喜ぶことがネガティブな印象で受け止められることの説明にはならない。より大きな善と比べれば小さいかもしれないが、それでも善であることには変わりがないのだから。

では、なぜこのような事態が起きているのか? 確かなことはわからない。だが、おそらく自分自身が楽しい行為が他人を喜ばせることはないという前提が、このような事態を引き起こしているような気がしてならない。

このことは僕が以前、欲望に関して書いた文章を参考にしてもらえるとよくわかると思う。僕はここでお金というツールが人が他者への貢献を欲望することはないという前提を生み出したという仮説を書いた。

僕が言いたいことはこうだ。人は自発的に誰かの役に立つことを行うし、自発的に行った場合は、その行為自体が喜びになる。逆にそれが強制されたものであれば苦痛になる。強制される行為とは基本的に他者に貢献する行為である(例えば「おい、1日中ペンを回せ」といった他者に貢献しない命令が下されることはない)。お金というツールによって他者に貢献される行為が頻繁に強制された結果、他者に貢献することを人は望まないという認識が生まれた。だから他者に貢献することに対して「欲望」という言葉は使用されない。

この前提は必然的に次のような結論へ導かれる。

人が楽しいと感じる行為は他者の貢献を浪費する行為でしかあり得ない。そして、他者の役に立つ行為は苦痛でしかあり得ない。故に本人が楽しいだけの行為は悪である。

しかし、この結論は誤っている。そもそも人は他者への貢献を欲望することもあることは明らかだし、それが楽しいということも十分にあり得る。単にそれが強制されているから苦痛に感じるだけなのだ。

さて、小難しい話はここまでにしよう。何はともあれ、僕はこの風潮を打ち破りたい。

自分とは誰かにとっての他人であり、他人とは誰かにとっての自分だ。本来なら他人と自分に優劣はないはずである。誰か1人を喜ばせることは、自分を喜ばせることと同じだけの重要性があって然るべきだろう。

やりたくない仕事から逃げることや、1日中好きなゲームに没頭すること。これは、少なくとも自分自身の喜びを生み出している。そして自分とは誰かにとっての他人である。つまり、それは世界に対する貢献である。

楽しいと思うことをやること。または楽しくないことを辞めて苦しみ減らすこと。これは役に立つことである。

あなたが楽しいなら、それは世界の役に立っている。

こういう発想に立ってみると、なにがどう変わるだろうか? わからない。わからないが、ともかく今ほどに窮屈な社会ではなくなることは間違いないだろう。

先ほど僕は、人は他者への貢献を欲望すると書いた。だからと言って「おい、お前も喜んで他者へ貢献しろよ」と和民の社長のようなことを言いたいわけではない。

もしかしたら欲望するかもしれないし、しないかもしれない。だが、何を欲望するかを、他人に強制される必要はない。ともかく自分を喜ばせているのなら、良いことなのだ。

そして、そういう観点からスタートしているのがアンチワーク哲学なのである。

アンチワーク哲学は、個人の喜びを徹底的に肯定する。そして、その果てに労働なき世界があると主張する。