アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

労働とはなにか?

山内昶『経済人類学への招待』によれば、オーストラリアのイール・イロント族は「遊び」と「労働」を、メキシコのタラフマレ族は「働く」と「踊る」を、同一の言葉で表現しているらしい。

このような社会を山内は次のように表現する。

農耕が愛好家の花卉園芸に限りなく近づき、狩猟が王侯の特権ではない純粋なスポーツとなり、採集が茸狩りや山菜取りのような楽しいピクニックであり、漁撈が遊びや気晴らしとしての趣味的な魚釣りであるような、そうした労働の廃棄された社会

 

僕たちはついつい「未開人は1日に4時間しか労働しなかった! なんて自由な社会なのだ!」と未開社会にキラキラした眼光を向けるが、この発言は微妙に芯を外している

まるで彼らがその4時間を、チラチラと時計を見つめながら「まだ10分しか経ってないのかよ‥」などと心の中で悪態をつきながらパソコンの画面を虚な目で見つめ続ける五月病の新卒社員のような気分で過ごしているかのようではないか。しかし実際、彼らは遊んでいるのと気分は変わらなかったはずだ。

では、なぜ僕たちは「労働」を苦しいものであると捉え「もっとワークライフバランスを!」などと声高に叫んでいるのだろうか? そもそも僕たちの労働はなぜ苦しく、彼らの「労働らしき行為」はなぜ苦しくないのか?

まず、未開人は4時間労働だから苦しくなくて、現代人は8時間労働(か、それ以上)だから苦しいという考えが思い浮かぶ。もちろん、労働が長引くほどに苦しいというおおまかな傾向は見られるだろうが、恐らく決定的な要因ではない。なぜなら、1日3時間の労働でも、急に飛ぶバイトのエピソードには事欠かない上に、年中無休でイキイキと働く豆腐屋の店主のような人も掃いて捨てるほどいるからである。

そして、作業そのものに備わっている肉体的な負担に、労働の苦しさが由来するという考えは明らかに間違っている。なぜなら、人は余暇においても積極的にスポーツを行い、労働以上に肉体に負担をかけているが、それが辛いだなんて思わないからである。むしろ好きな人は積極的にスポーツを行う。それに、未開人たちの労働の方が明らかに肉体的な負担は大きいだろう。

となると、精神的な負担が原因だろうか? 明らかにそうである。では、イール・イロント族やタラフマレ族の「労働らしき行為」には存在せず、現代人の「労働」には存在する精神的な負担とはなんなのか?

それは支配されることであり、他者の命令に従属させられることである。僕は「労働」という言葉はこの観点から定義すべきだと考える。そして一般的な労働の定義は誤っていると主張する。

一般的に考えられているように「金銭を得るための活動」を労働の定義とするのであれば奴隷労働や家事労働があぶれてしまうし、生活保護の申請やパチンコも労働ということになってしまう。あるいは「自然に働きかけて生活手段や生産手段を生み出すこと」という古臭いマルクス主義らしき定義に則ってみれば、今度は家庭菜園や日曜大工が労働ということになる。

しかし「他者から強制される不愉快な営み」と定義すれば、日常的な労働の用法とピッタリ一致するはずだ(実際、フランス語で労働を意味し、求人誌の名称としても知られる「トラバーユ」は、もともと責め苦や拷問を意味していたらしい)。

そして、労働なる言葉を持たない人々がなぜ存在するのかも説明がつく。彼らの社会には恐らく支配や命令、強制がほとんど存在しないのだろう。だから労働という言葉を用意する必要がなかった。一見労働のように見える狩りや農作業は遊びや踊りとなんら変わらない行為なのである。

とは言え、経済理論という名のプロパガンダを信奉するピュアな人物なら次のように反論するだろう。「現代の労働とは自由な契約に基づいたものなのだから、決して不条理な支配などではない」と。

会社員として働いたことのある人の大半は、これが「民主主義」と同じく空虚な建前に過ぎないことを理解しているはずだ。なんらかの会社で働くならば、第一に上司や先輩、経営者、取引先の理不尽な命令に屈することが求められ、多くの人にとってはそれを拒否することは難しい(稀に拒否する強者もいるが、多くの人には難しい)。

もしも、会社員は支配されていないというのなら、ビッグモーターの社員たちは「街路樹に除草剤を撒け」とか「ゴルフボールで車をボコボコにしろ」と言われても拒否していたはずだ。好き好んでそんなことをする人間などいるはずもないのだから。1人や2人、クレイジーサイコパスがいることはあるだろうが、組織的にこのような事態が起きるのは、そこに支配があるからに他ならない。また、もしそれが支配でないのなら、過労死するサラリーマンなんて1人もいないはずだ。

支配とは、「やりたくないことをやらされること」だ。「やりたくないこと」を実行すれば不幸になる。なぜなら、「実行すれば不幸になるであろう行為」こそが「やりたくないこと」の意味だからだ(ただし、やっているうちに気分が変わって「やりたくないこと」が「やりたいこと」になることはあり得る。それが明るい社畜が誕生するメカニズムである)。

ではなぜ、僕たちは支配に屈するのだろうか。別に銃口を突きつけられているわけではないというのに。

さまざまな原因が考えられるが、究極的には「金を稼がなければ自分や家族が路頭に迷うから」という理由であることは明らかだろう。

逆に言えば、金を稼がなくても自分や家族が路頭に迷う恐れがないのであれば、会社員の支配は軽減される。ビル・ゲイツが部下になったとして彼にパワハラできる人などいない。なぜなら、彼が不愉快だと感じたなら即座にあなたの元を離れるだろうし、そうしても彼はまったく困らないからである。

つまり、労働の苦しみから逃れるためには、生殺与奪の権を他者に握られないことが欠かせない。僕がベーシックインカム固執するのは、BIは生殺与奪の権を誰もが取り戻すことができる唯一のシステムだと考えているからだ。

さて、支配から解放され、生殺与奪の権を人々が取り戻すことの影響は、計り知れない。

斉藤幸平のようなマルクス主義は、利潤追求のために人と自然を貪り尽くそうとする資本を憎む。確かに、結果として無限の経済成長を目指ざるを得ない資本は、資源と労働力を食い尽くし、コンクリートで地球を覆い尽くそうとしている。

だから資本の力を奪うためにアソシエーションして、生産手段を共有しようと、マルクス主義者は主張する。だが、彼らが見落としている点が1つある。資本の運動とは、歯車のように機会的に作動するものではない。資本が資本であるだけでは、増殖することはない。

資本の増殖運動は、紛れもなく人間の労働によって駆動されている。資本家は確かに無限の資本蓄積を望み、末端の人々に対して街路樹に除草剤を撒くようなプレッシャーを与える。労働者は資本の蓄積を望むとは限らないが、それでも生殺与奪を握る資本家に従属せざるを得ない。だからこそ資本が資本たり得るのだ。

裏を返せば、「労働者の生殺与奪を資本家が握っている」という資本の成立条件さえ覆せば、資本の増殖運動は回路ショートを起こす。それはすなわち革命である。

また柄谷行人も『世界史の構造』で指摘したように、株主支配を脱却し、労働者によるアソシエーションが行われたところで、結局のところ市場で生き残るには利潤追求をせざるを得ない。ならば「生き残ろうとしなくても、BIによって生き残ることができる状況」の方が、資本の増殖を止められるはずだ。

生殺与奪を握られるのでなければ、食い扶持を稼がなければならないという焦燥感がなければ、誰がアマゾンが禿げ上がるまで牛肉を生産しようと思うだろうか? 誰がビルが倒壊するまでパキスタン人をミシンと共に鮨詰めにしようとするだろうか?

支配は怠惰と無気力を生み出す。しかし、人間が怠惰を渇望することはあり得ない。支配から逃れるでもなく、それでも完全に支配されることを拒む体は、怠惰か無気力に身を委ねるのだ。あるいは、歯車を演じることに精を出す人間もいる。意識高い系がそれだ。

支配者は人間を歯車であると思い込む。そして、人間は歯車のフリをし、それに成功する。本物の歯車は融通の効かないガラクタに過ぎない。怠惰と無気力に浸かり切った人間の方が、よっぽど上手く歯車を演じる。

人間は歯車を演じられるほどに器用なのだ。彼らが労働や支配という軛から解き放たれたとき、一体どんな風に命が煌めくのか、僕にはわからない。

ベーシックインカムによって人々が支配から解放されたとき、何が起こるか予測することはできない。なぜなら、予測を可能にするものこそが支配だからだ。

同じように畑を耕す行為であろうが、それが自由な意志に基づいた行為なのか、命令によって行われた予定調和な行為なのかによって、天と地の差がある。このことを誰も理解していないらしい。

それは恐らく、誰も人の意志を信じていないからだろう。しかし、人には確固たる意志が存在することは否定のしようがない。そして意志による決定こそが幸福であることも同様だろう。

ここで、手垢に塗れたシニカルな決定論の台本をあなたが持ち出そうとするとき、その台本を読み解くという意志は紛れもなくあなたの命の煌めきである。

僕の理論を反証しようとするその意志こそが、労働なき世界を可能にするエンジンに他ならない。

僕は人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。


以上が、僕の労働観であり、アンチワーク哲学の労働観である。