アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

あらゆる行為は命令により労働化する

塩を取ってくれる?」と言われたとき、あなたならどうするだろうか?

あなたが常識的な感覚の持ち主ならば、断ることはないだろう。

しかし「おい、塩を取れ」であったならどうだろう。あなたが常識的な感覚の持ち主ならば、「はぁ?お前しばいろか?」と拒否するだろう。

やらされる行為はまったく同じなのに、「お願い」か「強制」かによって、人のモチベーションには雲泥の差がある。この事態は「そらそうやろ」とスルーせずに真面目に考えた方がいいと思う。

人を強制することはむずかしい。なぜなら、人は強制されることを嫌がるからだ(もちろん、これはトートロジーだ。強制とは、そもそも嫌なことをやらせることなのだから)。嫌がる人を強引に行為させることは、基本的には不可能だ。

このことを最も理解しているのは3歳児の親だろう。「眠そうにしているから眠らせる」とか「おしっこをしたがっているからトイレに行かせる」といった、客観的にみて合理的だと感じる強制すら、一筋縄ではいかないのである。子どもは明らかに「強制そのもの」を拒否している。

大人も同様だろう。塩を取るなんて行為は造作もない。それでも、強制された途端に嫌になってくる。

ただし、命令してきた男が銃口を突きつけていたならば、まず間違いなく取ることになる。あるいは1万円札をテーブルに叩きつけたとすれば、同じように塩を取って渡すかもしれない。

それでも釈然としない。なぜ脅されたり、金で釣られたりしなければならないのか?と疑問を抱く。そして怒りが煮えたぎってくる。

一度そのような想いを抱えてしまったが最後、その男が次に金や銃なしで塩を取るように要求してきたならどうするか? 塩の中身を男の顔面にぶちまけることになるだろう。

金と銃はやりたくないことをやらせる脅しの道具である。金をもらえないならやりたくない仕事は、やりたくない仕事である金とは強制的に他者を動員するツールであり、権力そのものだ(「なぜ働くの?」と尋ねられたら「生きるため」と答える大人が大半であることがその証拠だ)。

ここで1つの疑問が生じる。なぜ僕たちは金を渡す代わりに「お願い」で済ますことができないのか? なぜ「ちょっと大根余ってない?」とか「服ほつれたから縫ってくれない?」とか「ごめん、ちょっと半導体工事立ち上げに協力してくれない?」とかそういうやり取りで世界経済が成り立っていないのか?

強制は、そもそも人のモチベーションを下げる。つまり金を渡せば人のモチベーションは下がる。この現象は心理学者がアンダーマイニング効果と名付けた普遍的な現象である。それでもなお僕たちは、金によってわざわざ人のモチベーションを下げてから、必要な仕事を誰かにやらせているのである。

順当に考えれば「わざわざ金で強制させずに、お願いしてやって貰えばいいんじゃないの? そうすればモチベーションがさがらないんだから」という結論が得られるのではないだろうか?

この疑問に対する最も率直な回答は、「強制しなければ誰もやりたがらないから」である。塩を取るような簡単な行為であればともかくとして、もっと骨の折れるような作業は、強制されなければやりたくない、というわけだ。つまり世界を成り立たせるのに必要な仕事は、強制されなければならないらしい。

果たして本当だろうか?

金をもらえないとしても、人は必要だと感じたならおしっこをするし、歯を磨く。子どものオムツを替え、風邪をひいた友達のために買い出しをするようなこともある。子どもが線路に落ちたなら助けようとするのが普通だし、友達の引っ越しを手伝うことに対してブツクサ文句を言う人も少ない。妹の結婚式のためにオープニングムービーを制作したとして、ご祝儀の免除を要求するような兄もいまい。

もちろん、このレベルの小規模な仕事ならば個人が戯れにやることもあるが、半導体工場を立ち上げて大量生産するためにグローバルサプライチェーンを展開しなければならないような仕事には、金と強制が必要不可欠なのかもしれない(朝から晩までラベルを貼り続けるような日雇い労働を喜んでやる人がいるとは思えない)。

だが、こればっかりはやってみなければわからないのである。アリストテレスすら奴隷のいない社会を想像できなかった。奴隷、つまり朝から晩まで命令を受けて仕事する都合のいい労働力がいなければ社会は成り立たないと感じていた。実際、奴隷がいなくても社会は成り立ったらしい。

ならば、労働そのものがなくとも、誰も強制されずとも、社会は成り立つのではないだろうか? そう期待せずにいることはむずかしい。

Linuxを作るような仕事。ティール組織のような組織形態。バーニングマンクリスチャニア。色々と可能性は存在している。ならば、世界全てを強制のない、労働のない経済システムで覆い尽くすことはできるかもしれない。

お願いと貢献の応酬で社会が成り立ったなら、きっと楽しいに違いない。BBQを企画するときのような、学園祭で店をやるような、自分たちの手で生活を作っているのだというあの手触り感とワクワク感に満ち溢れた社会である。楽しそうだ。

アンチワーク哲学が目指す「労働なき世界」とはこれである。ベーシックインカムによって金から強制力を奪い、最終的には金自体の撲滅を目指す。

金なんかに頼るよりも、よっぽど効率が良さそうなものなのだが、どうだろう。目指してみてもいいんじゃないか、人類よ。