アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

アンチワーク哲学による通俗的性悪説批判

性善説性悪説はどちらも信仰

人は本質的に善か? それとも悪か? この問いについて古今東西で万巻の書物が記され、議論されてきた。しかし、決着はついていない。

当然だ。この問いに答えることは信仰告白なのだから。人は明らかに善行も行うし、悪行も行う。1つの行為にも、善悪さまざまな動機が入り混じっているのが普通だ。

つまり、完全に善であることはあり得ないし、完全に悪であることもあり得ない。そして、それを証明することもできない。脳内で善ホルモンや悪ホルモンが分泌されていれば話は早いのだが、そのような物質は見つかっていない。道徳的現象は存在せず、道徳的解釈のみが存在する。ニーチェの言う通りである。

しかし、人は完全に善、あるいは完全に悪だと主張したがる人は多い。これ自体、不思議な現象だと思う。何か社会問題を見つけてきて「フリーメイソンの陰謀だ!」と騒ぎ立てる人は基本的にバカだとみなされる。問題は明らかに複雑だというのに、それを単一の悪者が原因であると単純視しているからだ。

一方で、本来は複雑な人間の動機を「金銭欲が原因だ!」とか「利己的な遺伝子が原因だ!」とか「性欲が原因だ!」などと単一の悪の心が原因であると単純視することは、なぜかクレバーさの証だと考える人が多い(僕にはその逆であるとしか思えないというのに)。

では、そんなクレバーな彼らは、明らかに複雑な人間の動機を、どのようにして100%悪であると(あるいはその逆であると)解釈するのだろうか?

■「真の動機」と利己的遺伝子論

僕がみる限り、彼らは「真の動機」という概念を導入する傾向にある。

例えば、二度と会うことのない老人に席を譲る行為は明らかに善だが、老人に良い人だと思われたいという利己的な動機は1%くらいはあるだろう。人によっては10%か、50%くらいの人もいるかもしれない。ゼロということは恐らくない。

性悪説を唱える人は少なくとも利己心が1%以上含まれていることを根拠に、「利己的な動機こそが真の動機である」と主張する。

これも不思議な話である。例えば10%の利己的な動機が含まれていたとして、残りの90%が無かったことにすべき理由は特にない。そして、そもそも割合を測定するのは不可能である。ならば、これは信仰告白だろう。

ここで、利己的遺伝子論を持ち出してきて反論したがるクラスターも一定数存在することが予想される。だが、結果として比較的自己保存と遺伝子拡散につながる行動を取る個体が保存されてきたことと、すべての行為は自己保存と遺伝子拡散が動機であることはイコールではない。

利己的遺伝子論によれば、ダヴィンチがモナリザを描いたことも、米津玄師がLemonを作曲したことも、ジョブスがiPhoneを作ったことも、アインシュタイン相対性理論を思いついたことも、すべては遺伝的資産の最大化を狙った遺伝子の仕業ということになる。

もちろん、そのように解釈することは常に可能ではある。だが、あまり意味のある言説とは思えない。

老人を前にして寝たふりを決め込むことも、率先して席を譲ることも、どちらも同じくらい利己的とみなすことは果たして意味があるだろうか? そんな見方をしたとして、何か良いことがあるだろうか?

たぶん良いことはない。僕は良い方向に、物事を考えてみたいのだ。みんながそう考えれば世の中が良くなるようなことを考えたいのだ。

僕が提案したいのは、人は善行を欲望するという事実を見つめてみよう、ということである。

■善行は気持ちいいという当たり前の事実

老人に席を譲るというありふれた場面に戻って、状況を整理したい。まず、確実に言えることは「理由はどうあれ、彼は老人に席を譲ることを欲望したこと」と、「実際に彼は老人に席を譲ったこと」である。

譲ったということは、それを欲望したということになる。なぜなら彼はなんら強制を受けていないのだから。拳銃を突きつけられたわけでもないし、金をちらつかされたわけでもない。彼が席を譲ろうが譲らまいが彼の進退にかかわる評価を下す人は、その場面を見ていない。にもかかわらず彼は善行を行った。これは人間が善行を欲望するとみなす十分な根拠である。

は言え、ムカつくあいつをボコボコにしたいとか、パピコを独り占めしたいとか、グラビアアイドルを犯したいという悪なる欲望が存在することも事実だ。

ならば人は善行を欲望するし、悪行も欲望するという、当たり障りのない相対論に帰ってきて、議論は有耶無耶にするしかないのだろうか? そうではない。人が善行を欲望する場面は、よく考えてみると意外と多い。

この前、僕は外国人観光客に話しかけられて写真を撮ってやった。相手が喜んでいるのを見て僕も嬉しくなった。似たような体験はいくらでもあげられる。ライターを貸したとき。道案内をしたとき。僕は喜びの感情が湧き上がるのを感じた。これ自体が僕が善行を欲望した証拠だろう。

逆に、タイミングを失って老人に席を譲らなかったときや、マタニティマークを見落として席を譲らなかったとき、尋ねられた道が分からなかったとき、僕は自責の念に駆られてしまう。「あぁ譲ればよかった」とか「でも、マタニティマーク見えにくいところにあったし相手も悪いよなぁ」とか、あれこれと思い悩むのだ。これもまた、僕が善行を欲望している証拠に思える。

もちろん、これらのケースでは僕が注ぎ込むリソースが微々たるものなので、これだけで僕が善人であると主張するつもりはない。だが、膨大なリソースが必要な善行でも、僕はその行為を欲するケースが多い。

例えば、誰か客人が家に飯を食いにくるとき、僕は手作りのピザを焼いて、ローストビーフを作って、そこそこのワインを用意して、前菜とスープも用意して‥などとフルコースを作ることが多い。作業工程も楽しいし、喜んでもらえるのも楽しい。

逆に僕が親戚の家に行ったとき、これでもかというくらいに僕や僕の子どもたちにご馳走を食べさせてくれて、そのことに親戚たちは満足しているように見える。そして、善行の機会を得ようと、あれやこれやと口実を見つけて、僕たちを誘い出そうとする。

親戚に限った話ではない。子どもと公園を歩いていると、その辺のおばあちゃんがお菓子をくれたりする。あのおばあちゃんは明らかに子どもの世話を欲望している。自分の遺伝子なんて微塵も含まれていない子ども相手に。

逆に子どもは子どもで、善行を欲する。僕の息子は柿を食べないくせに、柿の収穫は喜んで手伝ってくれた。彼は妹の面倒を見たがり、洗濯や料理を手伝いたがり、花に水をあげたがる。

この手の経験は誰しも思い浮かぶはずだ。人はどいつもこいつも善行をやりたがるのだ。

ここでダンバー数を持ち出してきて、人間は150人くらいには優しくできるがそれ以上は無理であると反論するのはあまり意味がないように思われる。日常的に親しくするならそれくらいかもしれないが、150人以外に対しては出会い頭で先制パンチを喰らわせる人はいない。見ず知らずの人とも関係性を築く必要を感じたなら、即座に優しくしたくなるのが人間である。

むしろ見ず知らずの人相手であっても、優しくしないためにはなんらかの言い訳を必要とする。誰かに営業をかけられたときに断るのが難しく感じるのは、せっかく説明に時間を割いてくれた相手の善意を無碍にしたくないと感じるからであり、要は相手に優しくしたいのだ。だからこそ「いやぁ、金がないから」とかしどろもどろで断る結果になる。理由なく「いや、いらないです」と言えるようになるにはトレーニングが必要なのだ。

■人は普段から性善説を信じて生きている

このように、性善説を信仰するにあたって都合のいい事実はいくらでも見つかる。そして実際に、人はほとんどの場合において、性善説を前提として他人を無条件に信頼しきって生きていることの方が多い。

車の運転がそうである。真後ろを走る大型トラックのドライバーがどんな人物なのか、僕たちは全く知らない。しかし、彼が居眠りをしていたり、飲酒をしていたり、自殺願望があったり、殺人願望のあるサイコパスだったりして、ほんの少しブレーキのタイミングが遅れるだけで、僕は死ぬ。どれも十分にあり得そうな話である。それにもかかわらず、僕はそんな可能性を微塵も考慮することなく車を運転するのだ。

見ず知らずの他人に命を預けている。そして実際にドライバーの大半は責任を持って赤の他人の命を守ろうとする。1時間もドライブすれば道路上で関わる車や通行人の数は150人では済まないだろう。人間にはこんな芸当ができるのである。

このようにそもそも性善説を前提にしないと社会は成り立たない。どこかの国でサミットが開催されて何万人の警備が動員されたとして、そのうちの1人か2人がバイデンを殺したい思っていないと信じる根拠はない。彼を乗せたリムジンの運転手が、たまたま今日になって破壊衝動を抱かないと信じる理由はない。「それ言い出したらキリないやん」っていう話なのだが、「だったら初めから性善説でよくないか?」と思わずにはいられない。

人は他人は基本的に善良であると信頼しきって生きている。そのくせ、性善説性悪説の話になった途端に、「いやぁ人は悪だから‥」などと嘯くのだ。正直、現実を見た方が良いと感じる。

そもそも人には利己的な行為や、悪を成すチャンスは無数に与えられている。警察の抑止力なんてたかが知れている。夜道に女性を襲うことや、ドラッグストアやスーパーで万引きすること、運転中に幼稚園児の行列に突っ込むこと、誰かをホームから突き落とすことはそこまで難しくない。数年の刑務所暮らしも、土日祝休みで残業なしの工場労働で、衣食住が保障されると考えればそこまで悪くない。

それでも悪を思いとどまるのは、警察や刑罰のおかげと考えるのは間違っている。人は誰かを傷つけることをそもそも望まないと考えた方が自然だろう。ここでベンサムフーコーを持ち出して、単に人々はそういう規律を植え付けられているからであり、本来は悪であると主張することは常に可能だ。だが、そんな風に考える意味はない。

本当は人を殺したくてたまらないのに、刑罰や、遺族からの復讐を避けるために、渋々ながら殺人を諦めている人でそこら中が溢れかえっていると考えている人はいない。男は全員、通行人を手当たり次第レイプしたくて仕方がないにもかかわらず、警察が目を光らせているせいで、なんとか思いとどまっていると考える女性もいない。

そんな風に考えて生きるのは、精神衛生上良くない。さっさと精神科に診てもらった方が良いのである。

性善説を信じる方が合理的

とはいえ、殺人や家庭内暴力、いじめ、強盗といった悪はいくらかは存在する。これはどう説明すれば良いのだろうか?

貧困と犯罪率が相関することはよく知られている。いじめが閉鎖的な環境で起きやすいこともよく知られている。この前提から、当たり前に結論をくだせば、次のようになる。

人は困窮していたなら他人を傷つけるし、閉鎖的な環境で抑圧されていたなら他人を傷つける。が、大抵の場合はそんなことを望まない傾向にある。

ならば、困窮しないようにして、閉鎖的な環境から逃れられるようにすれば、人は善良になる、と考えても問題ないように思われる。それを実現するのがベーシック・インカムなのだ。ベーシック・インカムがあれば困窮することはないし、苦しい職場や学校、家庭から比較的逃れることが容易になる。未来永劫まで生活が保障され、嫌いな奴と暮らす必要がないなら、誰が強盗や殺人を犯すだろうか?

もし、人が本質的に悪を望む傾向にあるのなら、常に警察が拳銃を突きつける必要がある(まぁこの場合も警察を無条件に信頼しなければならないので結局は性善説に頼らざるを得ないのだが)。そして、悪いことをしたなら見せしめに吊し上げるか殺さなければならないということになる。しかし、そんな社会に暮らしたくはない。ならば、本来なら悪を望むはずもない人間が悪を成しているのは、なにか環境やシステムに問題があると考えるべきだろう。

繰り返すが性善説性悪説信仰告白である。だが、どの信仰がメリットが大きいかを考えれば、明らかに性善説だろう。

利己的な他者を想定するなら利己的に行為しなければその個人は損をするが、みんなが利他的な他者を想定した方が全体的にはいい結果になる。こういう囚人のジレンマは、社会の多くの場面で適用できると思われる。

誰もミサイルなんて撃たないだろうと誰もが考え、実際に誰もミサイルを撃たない方が世界は平和だ。誰も強盗なんてしないだろうと考え、実際に誰も強盗せず、誰もALSOKを契約をしない方が世界は豊かになる(ALSOKの社員は仕事をしていたときと同額のお小遣いをもらいながら鼻をほじっているか、モンハンでもやっている方が良い)。このことに疑いの余地はない。

ならば「人って利他的じゃね?」と誰もが考えて、利他的な行動が増えていくようにベーシック・インカムを始め、社会制度を設計した方がみんなが幸福になれる可能性が高まる。

つまり、性善説の方が合理的なのだ。

■結論

性善説性悪説はどちらも信仰である。ただし、性善説を信じて社会を組織化した方が効率的というのが、僕の結論だ。

当然、誰もが自発的に善行を行うのなら、なぜ工場労働やトイレ掃除の仕事が苦痛に感じられるのか?という疑問は生じるだろう。

その疑問についてはかつて答えた。

要するに命令された途端に、善行への欲望は欲望ではなくなるということだ。なら、命令を止めれば人は自然と善行をも欲望するということになる。

なかなか信じたくない理屈だと思う。「人は悪である」という当たり障りのない言説を信じていた方が楽だし、クレバーな印象を周囲に与えられるような気がするからだ。

性悪説とは、白Tとジーパンみたいなものだろう。無難で、シンプルで、かっこいい。しかし、それもそろそろダサくなってきた

これからの時代、クールなのは性善説である。