アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

アンチワーク哲学による行為と欲望の考察

 

■人が欲望するもの

可愛い子どもとは誰だろうか?

よく大人の言うことを聞く子? 勉強ができる子? お手伝いをする子? いや、究極の愛されっ子の特徴は、よく食べる子である。

このこと自体、私たちが人間に対して抱いている常識とは思いっきり矛盾する。人は利己的であり、ミニマックスの原理で動くと、一般的には考えられているのだから。料理は、死ぬ思いでかき集めてきた自分の金を削って、せっかくの休日に手間暇をかけて、ようやく作られる。それだけのコストをかけたものを、自分で独占するのではなく、他人が取り上げてしまうのだ。

ところが、それに対して「クソ、あいつ好き放題食べやがって‥」と文句を言う親戚のおばちゃんはいない。むしろよく食べる子は可愛がられ、また次も山盛りのご馳走と共に迎え入れられることになる。

もちろん、このことも無理やりミニマックス戦略に当てはめることは可能だ。彼女は自分の名声を最大化するためのコストを投資し、その投資を受け取る対象としてよく食べる子を打算的に可愛がっているにすぎない、というわけだ。どんな行為においても、最大化しようとする何かを見つけることは可能だ。匿名の寄付ですら、自分の満足感を最大化しようとしていると解釈できるのだから。

しかし、これも無理がある。なぜならその場合、食べずに遠慮する子どもの方が重宝されるはずだからである。食べない子ども相手に料理を提供したという事実だけで、評判の向上という効果は得られるのだ。あとは自分が食べた方が、その分のカロリーや満足度を得られるため、トータルで得をしているはずだ。しかし、子どもに提供するはずだった食事を1人で寂しく食べることは、この上なく苦痛であることは想像に難くない。

もし科学的な論理的一貫性を保持しようと思うなら、人が飯を食えば食を欲していると解釈するのと同じように、人が貢献するなら貢献を欲していると解釈すべきだろう。

アンチワーク哲学は、徹底的に行為と欲望の哲学である。行為を見つめ、その行為はすべて欲望に突き動かされていると解釈する。

例えば人は食事を摂る。その行為を見て「彼は食を欲していた。つまり食欲に突き動かされた」と解釈するのと同じように、誰かが子どもに貢献したなら「彼は貢献を欲していた。つまり貢献欲に突き動かされた」と解釈する。

そもそも食欲とは、現実を構造的に説明するために導入された仮想的な概念に過ぎない。性欲や睡眠欲、権力欲、金銭欲も同様であり、現実に「食欲」とラベルが貼られたホルモンが脳内で分泌されているわけではない。「そういう欲が存在することにして会話しましょう。その方が会話がスムーズだから」という約束事に過ぎないのだ。しかし、この仮想的な概念は、確固たる現実のパッケージを被りノーチェックで流通している。一方で、貢献欲なる概念はそもそも世間に存在していない。その結果、人は食や性、睡眠、権力、金ばかりを欲するが、他のものは欲さないかのように捉えられているのだ。

これはイデオロギーに支配された非科学的な態度だと言っていい。科学的な態度を一貫するなら、実際に起こっていることを観察して、それぞれの事実を平等に扱わなければならない

僕たちの目の前にあるのは、人間があまりにも多様な行為を実践(欲望)する事実だ。ラーメン二郎をたらふく食べること、ホームレスに炊き出しをすること、豆袋に指を突っ込むこと、証明写真機の下に捨てられた失敗写真を集めること。あまりにも多様な行動をとるため、そこに一貫性を見出すのは難しいように思う。

だが、アンチワーク哲学は説明を試みる。

■行為はどこへ向かうのか?

まず、行為とは、完全な物理法則のまま予定調和的に世界が進行しているところに、予定調和を乱すなんらかの変化をもたらす。落下する石は物理法則に従えばそのまま落下する。だが僕が受け止めれば、止まる。受け止めなければ止まらない。この手の変化を起こすために人は行為する。逆になんの変化ももたらさない行為は存在しない

人が行為を欲するということは、変化を欲するということである。自らが意志し、行為し、現実を変化させること。これこそが人の欲望の源泉である。

行為の前には予測がある場合もあるが、ない場合もある。予測がない場合とは、赤ちゃんが無秩序に手足をバタつかせるような行為であるが、その中で赤ちゃんは予測可能性を高めていく。何度か繰り返したのちに、「手足に意識を傾ければ、手足がバタつく」と赤ちゃんは理解する。そしてどうやら手足は自己の意識と接続されていることに気づき、身体と呼ばれる存在を認識する。手足を、どこかに向けると、なにか感覚が変化する。物に触れているという状況を知覚する。物が動く。そんなこんなで、赤ちゃんは予測可能性を高めていく。

人は予測通りに現実が変化することに満足する。豆袋に指を突っ込めば、快適な感覚が指から感じ取られることを人は予め知っていて、その通りに快感がやってくることで、人は自らの予測可能性の確かさを確認する。

一方で人は、予測可能性の範囲を拡大したいとも考える。もしそうでないなら、赤ちゃんはわざわざハイハイを覚える必要があるだろうか? そんなことをしなくてもミルクと暖かい毛布は提供されるのだ。明らかに人は、予測可能性の範囲を拡大したいという衝動を持つ。

そして、一度確立されたように見えた予測可能性の世界は、安住の地である。安住の地の中で予測が外れるとき、人は苛立つ。立とうとしても立てないとき。針が糸を通らないとき。いつも優しいママが命令を聞いてくれないとき。

赤ちゃんの予測可能性の拡大は物質世界だけではなく、他者にも及ぶ。泣けばミルクが出てくる。オムツを替えてくれる。不快感から解放してくれる。といった具合だ。それらは赤ちゃんにとって手足を動かすことと同じような、絶対的な法則のように感じられるのに、稀にその通りに反応しない場合には、強烈なストレスに襲われるのだ。

もちろんこれは赤ちゃんに限らない。他者の支配に慣れ親しんだ人が、他者が思い通りに動かないときは強烈なストレスを感じる。

さて、大人になれば安住の地に引きこもってばかりになるのは、僕たちにとって見覚えのある現象だ。予測可能性の拡大とは、冒険であり、成長であり、勉強であり、失敗を受け入れることである。予測できない領域を予測可能にするためには失敗が必要なのだ。

様々な理由から、そのリスクを取れなくなった大人は、安住の地の守りを固めようとする。大人が前例主義や権力のヒエラルキー構造に固執するのはこのためだろう。

とは言え、人は飽きる。なぜなら人は根本的に予測可能性の拡大を望むからである。一方で、安住の地を手放したくない。アンビバレントな感情に板挟みになる中で、人は折衷案を思いつく。安住の地の中で、退屈をしのげる程度の予測可能性の拡大を欲するのだ。それは娯楽であり、トレンドであり、ファッションである。

完全に予測可能な音楽や映画は誰の目から見てもダサい。極限まで予測可能性の世界に安住している人ならば、水戸黄門を延々繰り返し視聴し続けるわけだが、大半の人は変化を欲する。つまり、トレンドの微妙な変化は、予測可能性の行き詰まりによって生じる。「あー、このまま展開してサビね」という予測可能性をほんの少し出し抜く楽曲(近年、それを最も上手くやったのは米津玄師とOfficial髭男dismであった)を、人は求めずにはいられないのだ。

ここまでをまとめよう。

人の人生は行為で埋め尽くされている。アンチワーク哲学では、行為を引き起こす原因を十把一絡げに欲望と呼ぶ。そして、行為とは変化を引き起こすことを意味する。人は変化を引き起こすにあたって予測可能性の維持と拡大の両方を求める。「こうすれば、こうなる。じゃあ、ああすればああなるんじゃ?」といった具合である。

人を支配することも、手足をばたつかせることも、最新の音楽を追い求めることも、針穴に糸を通すことも、同じく予測可能性の維持と拡大である。

さて、安住の地で行為を繰り返すにせよ、拡大の冒険に出るにせよ、いずれにせよ人の24時間はなんらかの行為で埋め尽くされている。行為のエネルギー‥すなわち欲望は誰しもが平等に持っているのだ。パスカルの言うように人は部屋の中でじっとしてはいられない。となると、なんらかの欲望はなんらかの方向に向けられなければならない。

■欲望の優先順位を誰が決定するか?

さて、ここで1つの疑問が頭をよぎる。行為は全て欲望に基づくのであれば、金のために自ら望まない行為を行うこと(すなわち労働)は、どう解釈すべきなのだろうか?

アンチワーク哲学の解答は1つである。労働も全て欲望によって行われる、である。なぜなら、人が人をコントロールするのは究極的には不可能だからだ。僕が念じただけであなたの手を動かすことはできない。あなたの手を動かすには、必ずあなたの意志が介在する必要がある。故に、究極的には、彼が行為するなら、彼はその行為に同意しており、その行為を欲望していることになる。

欲望には優先順位がある。例えば僕が電車の中でエロ動画を観てオナニーしたくなったとしよう。しかし、その場でチンチンを放り出して擦り始めたなら、すぐさま誰かに通報され、オナニーどころではなくなる。だからこそ僕はオナニーしたいという欲望を保留し、電車に乗って家に帰る欲望を優先させる。より大きな欲望のために、別の欲望を用意し、後から大きな欲望を達成するプロセスを大人はすでに学んでいる。

一方で子どもは、いま目の前に現れた欲望を、そのままに追求する。イチゴが食べたいなら、イチゴに手を伸ばす。大人なら近くにある邪魔なコップをどかせてからとった方が効率的であると判断するが、子どもはそのままイチゴを取るという欲望を追求する。結果コップをひっくり返す。その失敗を繰り返した後で、イチゴを取る前に欲望の優先順位を切り替えた方が効率的であることを学ぶ。

金のためにやりたくない労働に取り組むのは、優先順位の切り替えによって説明できる。いま、家にこもってゼルダの伝説をプレイしたくても、そうすれば会社をクビになりゼルダの伝説どころではなくなることを考えて、人は定時まで労働を続ける。

では、労働とはなんの問題もない行為なのか? そうではない。アンチワーク哲学はその名の通り労働を批判し、欲望の徹底的な追求を推奨する。なら、アンチワーク哲学は、イチゴを食べるためにコップをどかすような行為すら否定するのだろうか? 世界中が手足をバタつかせるだけの赤ん坊で溢れかえればいいと主張しているのだろうか?

そうではない。アンチワーク哲学の問題意識は、欲望の優先順位の付け方に対する納得度に収斂する。

イチゴを食べるためにコップをどける行為に対して不満を抱く大人はいない。文章を書くためにパソコンを開いたり、部屋の電気をつけたりする行為に不満を抱く大人もいない。人は最終的な欲望の達成のために、下準備となる行為を欲望せざるを得ないわけだが、大人たちはこれに納得感を持って取り組む。

一方で、労働に関しては納得度は遥かに低い。生きるために労働しなければならない。しかし、できることならやりたくない。なぜやらなければならないのだ? そんな不満を抱きながら、人は渋々ながら労働を欲望せざるを得ない。

人が不満を抱くのは、欲望の優先順位の決定権が自分にないという感覚を抱くときである。

では、欲望の優先順位の決定権を奪われ続けるとどうなるのか?

1つは欲望の優先順位の決定権を奪われることそのものを欲望することである。ニーチェのいう畜群道徳とは、支配されることを欲望することを意味する。そうすることで、あくまで自分は支配されることを自ら選択しているのだという心の拠り所を得る。社畜とはこのような存在であると解釈すべきだろう。決して彼は資本家の言いなりになる機械ではない。彼は彼の意志で服従を欲望していると、納得しているのである。

もう1つは、どこか欲望の発散先を確保することである。自らの手で思う存分欲望を追求し、予測可能性が拡大していることを感じられる状況を、少しでも手に入れようとする。それは学校においては勉強にひたすら熱中することでもあり、風気委員として風紀の徹底を自らの手で執り行うことでもあり、弱い物いじめでもある。

学校ではあらゆる行為が禁止される。髪の毛を染めること。スカートを短くすること。禁止に歯向かうのでなければ、自らの欲望を自らの手で追求する手触りが失われる。弱いものイジメとは、その場で許されている予測可能性の拡大の数少ない選択肢の1つである。

大人の社会での権力闘争も、このように解釈できる。ヒエラルキーによって組織された会社では、欲望の優先順位を決定する権利は、全て上層部に握られる。奪い返すには、自分が権力を持つしかない。だから人は出世競争に精を出すのだ。

つまり、禁止が、欲望の優先順位の決定権を奪われることが、欲望を望まぬ方向へ溢れさせるトリガーとなっている。

■欲望の優先順位の決定権を取り戻す方法

ではここで、別のアプローチを考えたい。狭い水槽でしか魚同士のいじめが起こらないように、他者の支配へと人の欲望が向かうのは、それくらいしか許された欲望の解放先がないからである。他にもっと自由に欲望を追求できるのであれば、わざわざ他者の支配を欲望する者は少ないだろう。

あるいは支配に服する必要がないなら? 欲望の優先順位を決定されなくても、自由に生きる権利が与えられるなら。人を支配しようとする営みは徒労に終わるはずだ。

アンチワーク哲学は、金は支配のツールであると考える。金とは実質的に人に望まない行為を強制させるツールであり、権力そのものである。

金がなければ生きていけない。だから金を供給する側の命令を無視できない。人は金を得て生き延びることを最優先の欲望として設定するため、納得しないままでも、金を持つ者の命令に従う。

ベーシックインカムとは、全国民に最低限の権力を分配する営みである。それは、命令を拒否できるだけの最低限の権力である。上司や客の命令を無視してクビになっても、彼は生きていくことができるのだから。

つまりそれは欲望の優先順位を納得して決定するだけの権利を、彼が持つことを意味する。そしてBIは自由な欲望の追求を可能にする。そして彼の欲望が他者の支配に向いたとき、彼の欲望は挫かれる。なぜなら、他者は彼の支配を無視する権力を持っているからである。

とは言え、人の欲望はくじかれては妥協することを繰り返す。光速よりも早く移動できる人間は存在しない。試みては失敗して、人は不可能であるという予測を打ち立て、また別の欲望へ向かう。人の支配もいずれ、光速と同じスピードで動くことのように不可能な行為として、切り捨てられるだろう。

ベーシックインカムが十分に浸透した社会では、支配を望む人を見れば「あぁ、そんなことを望むバカな人もいたよね」と、さながら迷信に囚われた錬金術師のように、歴史の闇に葬り去られるのである。

こうして人は多様な欲望を追求する。子供に飯を食わせること。ゼルダの伝説をプレイすること。美しい庭を作ること。美味しい豆腐を作ること。予測可能な範囲で職人的に何かを行為する人もいれば、予測不可能な範囲へ次々に飛び込み、絆創膏まみれになる人もいる。

そこでようやく人は人の欲望の多様性に気づく。

もちろん、生きるために飯を食い、眠るという行為は、どんな社会になろうと強制的なものであり、僕たちはそこに優先順位を設定する必要がある。だが、その優先順位に不満を持つ者は稀である。飯を食わなければ死ぬが、飯を食うことを苦痛だと感じる人は少ない。納得感を持って取り組める。それと同じく、歯を磨くことも、誰かのために野菜を育てることも、水道工事をすることも、子どもを寝かしつけることも、半ば強制的な義務でありながら、納得感を持って取り組めるはずだ。もし、そこに優先順位を決定しようと命令する権力者がいないのなら

ではなぜ人の欲望の多様性に、人は気づいていないのか?

飯や女、権力や金以外のものは欲することがないように見なされるのか?

■支配と命令が人を怠惰とみなす

それは、支配と命令によってそうさせられたのである。

支配と命令とは、他者を強制的に奉仕させる行為である。自分が他者に飯を食わせるために、誰かに何かを強制する必要はない。単に与えればいいのである。しかし、他者に飯を作らせるなら、相手に行為させなければならない。

相手に行為させるには? 相手の欲望の優先順位の最上位に、自分に飯を作ることを持って来させなければならない。人に命令するには「そうしなければ死ぬ」に近い状況が必要である。相手の欲望の最上位を強制的に陣取るには、武器で脅すか、が必要である(租税貨幣論によれば、金が金たる所以は、暴力を背景に金を税として取り立てる国家が存在するからであった。つまり金とは暴力を後景に配置した命令の装置である)。

これは行為する側に不満を残す。本当は飯なんて作りたくないのに、やらざるを得ないという実感を残す。

そして、命令のデメリットは過小評価されている。人々は命令されようがされまいが同じ行為を行うなら大差ないと考える。しかし、アンチワーク哲学は、命令されているというだけで、もともとやりたい行為ですらやりたくなくなると主張する。これを命令による労働化と呼びたい。

「塩を取ってもらえますか?」と言われる場面と、「塩を取れ」と命令される場面を比較してほしい。同じ行為を行うとしても、命令されるかされないかによって全く異なる印象を抱くだろう。命令されて嫌な顔をする人を見て「彼は塩を取ることを嫌がる怠惰で不親切な人間である」と結論するなら、これほど的外れなことはない。彼は単に命令を嫌悪しているのである。塩を取ることなど彼にとっては造作もないのだから。

さて、人は命令によってそもそもやりたくないことをやらされたか、あるいはやりたかったことすらやりたくなくなったのか、おそらく両方の側面があるだろう。だが、そのきっかけとなったのは命令であり、他者の支配を好む権力者であることは明らかだ。

その手の実感が何度も繰り返されているうちに、恐らく人類社会は「飯を作るような貢献を、自ら欲望する者はいない」という価値観を育んでいった。

そして人の欲望とは、金や暴力を使って命令するような行為、すなわち飯を食うことやセックスすること、温かいベッドで寝ること、金銀で全身を飾り立てることだけに限られるのだとみなされた(パスカルは、王の衣装は人を労働させる力を持つことを顕示することでその威厳を保っているという旨のことを書いたが、パスカルは正しかった)。他者に命令する必要のない欲望は、視界の外に追いやられてしまったのだ。

しかし、実際のところこれまで何度も見てきたように人の欲望は多様である。支配関係から人が逃れれば、人は多様な欲望に向かう。生活や社会の維持に必要な労力すらも、人は納得感を持って欲望するはずである。

諸悪の根源は命令と支配にある。命令と支配が、人が何を欲望するのかを見えなくした。そして人が怠惰で利己的であるとみなした。だから、ベーシックインカムによって最低限の権力を万人に分配し、支配を終わらせることで、労働は労働ではなくなる。

労働とは、アンチワーク哲学に則れば「他者より強制される不愉快な営み」と定義される。なぜなら、労働が労働たる所以(労働が不愉快な所以)は、命令と支配にあるからである。

先述の通り、人は他者への貢献を欲望するが、強制されたならそれは不愉快な経験に変わる。自発的な欲望による貢献はむしろ快楽ですらある。「ライターを貸せ」と言われる経験は不愉快だが、「すみませんがライターを貸してくれませんか?」と言われて渡す経験にはほんのりと「いいことしたなぁ」という満足感があるのだ。結果として同じ行為をしていても、それが命令によるものかどうかによって感じ方はまるっきり異なる。強制的なセックスが苦痛であり、お互いの同意の上でのセックスが快楽であるのも同じように説明できる。

アンチワーク哲学が標榜する「労働なき世界」とは「強制なき世界」である。そのために必要なのがベーシックインカムである。ベーシックインカムによってあらゆる社会問題も解決に向かう。この世の問題の大半は、支配によって引き起こされているのだ。支配がなければ人は問題を解決していくものである。

ベーシックインカムについてはこちらを参照。

というのが、アンチワーク哲学の骨子である行為と欲望の考察である。

これを読んでもらえればアンチワーク哲学が決して「ベーシックインカムもらったら働かなくて済むじゃん!ウェイ」とか「もうさーAIが仕事すればいいじゃん!早くベーシックインカムくれよ!」とかそういう短絡的な発想ではないことがわかると思う。

※アンチワーク哲学への入門書はこちら

note.com

 

金のない世界は可能か?

金というものに対する考察をもう少し深めてみたいと思う。というのもアンチワーク哲学では、ベーシックインカムののちに金を撲滅することを目指しているが、BIに関する議論は盛んにおこなっているものの、金の撲滅についてはあまり語っていないからだ。

まず初めに断っておきたいのは、金を否定することと、金が生み出した果実を捨て去ることはイコールではないということだ。奴隷がつくったという理由でピラミッドを破壊する必要がないように(※)、金というシステムが生み出したMacBookや海底ケーブル、電波基地局、水道管を破壊する必要はない。金なくしてこれらのインフラは生み出されなかったが、だからといって金と一緒に捨て去る必要はないのである。

※ピラミッドは奴隷がつくったわけではないらしいが、あくまでたとえである。

金は様々な悲劇を生み出したが、同時に偉大な仕事を成し遂げた。だがいまや負の側面が大きくなり過ぎている。もう人類は金というツールに頼る必要はないのではないか? 新しい社会の組織化方法を考案してもいいのではないか? それは金が生み出した社会的な資本を維持管理しつつ、より人々の幸福に資する形で発展させられるのではないか? アンチワーク哲学が行うのは、そういう問いかけである。

■そもそも金とはなにか?

価値の貯蔵手段。価値尺度。交換手段。負債の数値化。他人同士がスムーズにやり取りするためのツール。様々な考え方があり、そのどれにも真実は含まれる。しかし、アンチワーク哲学は、その実質的な機能面からアプローチする。

金の機能は、二段階に分けられる。まず一次的には財やサービスを要求する力である。これは相手を半強制的に行為させるという意味で権力そのものである。

そして二次的な機能は、金の供給を采配する能力を持つ者たち(顧客、上司、社長、株主、政治家など)が得る、相手を命令に従わせる権力である。客を怒らせれば金を払ってくれなくなる。上司に嫌われれば出世の道が絶たれる。プロデューサーからの枕営業の誘いを断ればアイドルとして売れる(&金を稼ぐ)道が閉ざされる。パーティに参加して政治家に献金しなければ金稼ぎに不利な法令をつくられる。夫の元を離れれば生活費が足りない。こうしたメカニズムにより、金を持つ者や、金の采配に影響を与える者は、他者を命令に従わせる権力を持つ。

要するに一次的機能においても二次的機能においても、金は権力なのである。

■金が権力として機能するのはなぜか?

・権力の成立要件1/国家による暴力

歴史的に金とは負債であり、国家による発明品であった。誰かを神殿の作業に従事させる。その作業に対して一定の返礼を約束する証書。メソポタミアの銘版を調べたところそれが金の始まりであると考えられているらしい(このあたりはグレーバー『負債論』を参照)。そして、その証書はそのまま他者との取引に使用された。約束手形が流通するような感覚で、金は出回った。要するに借用証書だ。

詳しいことはわからないが、ここに暴力がなんの役割もはたしていなかったとは考えにくい。最初期の国家に暮らす農民たちは、ことあるごとに都市を抜け出し自由の荒野に駆けだそうとしていたことは、ジェームズ・C・スコットも口酸っぱく指摘する通りである(『反穀物の人類史』を参照)。国家は様々な為政術を考案し、失敗したことだろう。暴力で押さえつけ、なんとか労働に従事させたものの、すぐに逃げ出されたことも何度もあっただろう。あるとき国家は労働の対価を証書として与えてみた。すると、それは流通し、複雑な金融制度を生み出し、人々はその対価の獲得や返済に夢中になった。気づいたときには比較的暴力の行使をすることなく人々が都市の中にとどまり支配されていった。国家が暴力をふるうのは、その取引が円滑に行われないときだけで済んだ。支配者は天にも昇る快感を味わったことだろう。

鋳貨も暴力によって誕生した。鋳貨は遠征先で兵士たちを食わせるためのテクニックである。兵士たちにコインを持たせる。それで遠征先の人々に飯を提供させる。もちろん、そんなことをすれば「なんでそんなことをしなければならないんだ?」と人々が不満を口にすることになる。そこで暴力である。「コインは税として回収する。税金納めない奴はしばきな」と国家は宣言する。すると、人々はコインを夢中になって集めざるを得なくなる、というわけだ。もちろん、租税能力の背景には国家という暴力装置があり、現代においてもそれは変わらない。金を権力として成り立たせている基礎の一段目には、その支払いや流通を拒否した場合に動員される国家による暴力がある。

・権力の成立要件2/非自給自足的状況

さて、現代においては、国家による暴力だけではなく、単に金がないなら食っていけないという恐怖心によっても、金の権力としての側面を強めている。かつての農民たちは金がなくても生きていけた。しかし、現代の僕たちは金がなければ生きていけない。金を権力として成り立たせる基礎の二段目には、非自給自足的な状況が存在する。

それは歴史的には囲い込み都市化によって加速させられたはずだ。資本主義以前の社会にも金は存在したが、資本主義的な発展が生じなかった理由は、こうした説明が妥当であると僕は考える。資本主義以前の人々は金を追い求める理由はあったが、現代ほどに追い求める理由はなかった。だから、領主は農民たちを馬車馬のように働かせることはできなかった(マルクスは中世の農奴を「わきあいあいとしていた」と表現した)。自分たちが食べる分と領主の分を生産して、あとは祭りに終始していたのである。江戸時代の農民は領主に対してかなり強硬な態度をとっていた。それは、「逆らっても食っていける」「こいつらは自分たちがいなければなにもできない」という確信があったからだ。

つまり僕たちは、暴力と非自給自足的状況という二重の意味で金によって強制させられているのだ。

■金のデメリット

・強制によるモチベーションの低下

金による外発的な動機付けは人間のモチベーションや創造性を阻害する。これはビジネス書や心理学の入門書を読めばあちこちに書かれているのでいちいち参考文献を提示する必要もないだろう。アンダーマイニング効果とか自己決定理論といった言葉で検索すればいくらでも情報は出てくる。

アンチワーク哲学では、金がないと食っていけない僕たちは、金を得るために労働という強制に従わざるを得ないと考える。そして、上司や客、社長の不愉快な命令にも従わなければならない上、好きな時に辞めることもできない。それゆえに、人々は労働に不満を感じるのだ。これは金というシステムが生む根本的な欠陥の1つである。

・金の管理にまつわる膨大なコスト

聞きかじった話ではアメリカ人が税金の管理に費やす時間は、車の運転に費やす時間の倍にのぼるという(ソースは不明)。税金だけでこれなのだ。レジ。銀行。株式。債権。経理助成金の申請。決済システム。セキュリティ
。ATM。金にまつわるセミナーに参加する時間。預金通帳を見て頭を悩ませる時間。プライシングやマネタイズについて試行錯誤する時間。こうした活動に向けられるエネルギーはどれほどになるだろうか? 

ビットコインだけで先進国一国並みの環境負荷を与えているのだ。

掲載されている情報によれば、ビットコインの流通に伴って年間に排出される二酸化炭素(CO2)排出量は97.14Mt相当、電力消費量は204.50TWh、電子廃棄物量は25.65ktなどと見込まれている。

CO2排出量はクウェート、電力消費量はタイ、電子廃棄物量はオランダに、それぞれ相当する水準。

ビットコインによる年間の電力消費量は主要先進国並みに 拡大する市場の裏で高まる暗号資産の環境負荷

金全体が吐き出すコストはどれほどに上るか、想像もつかない。

もちろん環境負荷だけではなく、そこにはまぎれもなく人間の労働がつぎ込まれている。スーパーの業務のうち、値札貼りやレジ打ちはどれほどになるだろう。バーコードやレジをつくり、流通させるのにはどれくらい手間がかかってるだろう。会計システムやセキュリティ対策にはどれだけのエンジニアが情熱を注ぎこんでいるのだろう。考え始めればキリがない。金がなくなれば削減される労働がどれほどになるのか、誰か試算してくれないだろうか。

・金の追求のための不合理な行動

中国には投機目的で建てられた誰も住まないタワーマンションが膨大にあるという。合理的に考えれば、職がなく貧困に苦しむ若者のための住居づくりに向けられた方がいい労力は、誰も住まないタワーマンションに向けられたのだ。

それだけではない。保険請求のために車をわざと壊す。わざと床下にシロアリをまいて法外な値段のシロアリ防除費用をぼったくる。エコバッグブームに乗っかって色とりどりのエコバッグを買わせようとする。クリック率をあげるために広告詐欺をする。無意味だと理解しながらも金を払うクライアントや上司の理不尽な要求に従う。明らかに売れ残る服や恵方巻をつくる。金のために「なんでこんなことしてるんだ・・・」と感じる行為に手を染めたことのないサラリーマンは多くはないはずだ。先進国の40%近い労働がブルシット・ジョブと化しているという調査もある(グレーバー『ブルシット・ジョブ』を参照)。これらの大半も、金が原因となって生み出されている(金がなくても生きていけるなら、ブルシット・ジョブに取り組む人間など多くはないはずだ)。

それだけではない。「金のため」と割り切らなければ、誰がグローバルサウスの未就学児に強制労働をさせたいと思うだろうか? 先祖伝来の土地を追い出された農民の娘を14時間も工場に閉じ込めたいと思うだろうか? たとえそれが地球の裏側に暮らす見ず知らずの他人であろうが、そんなことをさせたくないと思うのが普通である。しかし、同時に金のためならそうするのが普通なのである。

■金のメリット

もちろん、金によって強制されているのでなければ、朝から晩まで半導体部品をハンダづけし続けるような仕事は誰もやりたがらない。そうして、資本主義的状況は、大量生産やグローバルサプライチェーンの形成を可能にした。1つの製品をつくるための労働はピンの先っぽをつくることだけに専念するようなつまらない仕事に分解され、全く見ず知らずの人々同士が連携し、取引し、結果的に複雑な製品を作る。それを可能にしたのは金の強制力である。だから金の最大の効用は、有無を言わさず他者を動員することで規模の経済を実現することであると、アンチワーク哲学では考える。

現代から金を引っこ抜くとき、最も懸念すべきデメリットはこの点である。他人同士のスムーズなやりとりや、それによって実現する規模の経済。こうしたものを抜きにして現代の高度テクノロジー社会を維持できるのか?という問題である。

■みんなちゃんと働くのか?

まず第一に確認しなければならないのは、金ナシでいま以上の社会を維持することは物理的には可能であるという点だ。金とは人間の貢献を組織化するメカニズムに過ぎない。全人類が、金抜きでもこれまでと全く同じかそれ以上の働きをすることに同意すれば、金抜きで社会を維持することは可能である。この点に反論することは不可能であるように思われる。

信用創造という言葉は、この事実を覆い隠す。あたかも金がなにかを生み出しているような見かけを演出するのだ。なにかを生み出しているのは常に人間である。金はそのきっかけに過ぎない。この点は金に関する議論をするときは頻繁に忘れられるので強調しすぎることはないだろう。

さて、それでは本当にそれが可能なのか?

まず金がない世界においては、先ほど挙げた3つのデメリットは消え去る。銀行や税金、レジ、会計といった労働に注がれていた資源と労力はそっくりそのまま節約できる。そして、金の追求のために行われていた不合理な行動も多くは消えていくだろう。

この時点でかなり人類全体にゆとりが生まれる。浮いた労働についていた人々はなにをしてもいいのだ。畑を耕す人もいれば、戯れに工場労働につこうとする人もいるだろう。あるいは日がな一日ゲームに没頭するかもしれない。だが、人を殺しはじめるのでもない限りマイナスになることはない(そして、犯罪の二大巨頭である略奪はそもそも消え失せる。すべてが無料なら略奪する必要がないからである)。

そして先述の通り、金からの解放は人間のモチベーションや創造力を解放することは学者たちが指摘する通りである。銀行や証券会社から解放されてまるっきり自由になった人だけではなく、もともと社会に必要な仕事についていた人々も、より創造性を発揮する可能性もある(そもそも彼らも領収書の管理や経費精算、家計管理といったわずらわしい業務から解放され、より創造性を発揮する時間を得られるのである)。

では、金の管理や支配から解放された人間はなにをするのだろうか?

結論から言えばわからない。それを予測できるのであれば、もうそれは支配されているのと同じだからである。だが、今より面白いことになる予感はしている。なぜなら人には、自分が世界に与える影響を増大しようとする力への意志成長欲が備わっているからだ。より創造性を発揮する方向へ、人々のエネルギーは向かうはずである。

そして、アンチワーク哲学が繰り返し主張するように、人には貢献欲が備わっている。人は他者への貢献を欲望する。困っている人を見れば助けたいと感じる。これは食欲同様の普遍的な欲望であると考えられる。ゆえに、金からの解放によって生じたトラブルを、人々は解決しようと努力すると考えるのはさほど突飛な発想でもあるまい。

■秩序は維持されるのか?

さて、すべてが無料だったなら、誰もが我先にと米やトイレットペーパーに群がり、大混乱が生じるのだろうか? そうならないと考える根拠は、現代における小規模な金のない世界において観察できる。

バイキング。公園の水道。牛丼屋の紅生姜。寿司屋の醤油。ファーストフード店の紙ナプキン。駅のトイレットペーパー。肉屋の牛脂。駅前で配られるティッシュレッドブル。こうしたものは無料だが、すべてを搔っ攫う人はいない(少なくともほとんどみかけない)。

冷静に考えればこれは偉業である。レッドブル配りの行列に100回も並ぶ人は一人や二人はいるかもしれない。だが、大半の人は「欲張ると恥ずかしい」「みんなの分だから自分が独占するわけにはいかない」という自制心を働かせ、足るを知るのである(そうでないなら、いつまでもレッドブル社があの活動を続けている理由が説明できない)。「人間は無限の欲望がある」「金がないとみんなわがままに振る舞う」的な言説のばかばかしさは明らかだろう。

そして、がめつく無料の製品を掻っ攫う少数の人々も、おそらくすべてが無料ならわざわざそんなことをする必要がないことを思い知るはずだ。いまは、無料のものが少ないから無料のものをありがたがっているだけなのである。

とはいえ、もちろん何が起きるかはわからない。大パニックになる可能性ゼロではない。ただし、人々の普段の振る舞いをみれば、そうなる可能性は低いように思われる。

■アンチワーク哲学の役割

そもそも「金は本当に人類に必要なのか?」といった問いを立てるのは前澤友作のような変人だけである。それもまともに議論されているとは言えない。それほどまでに金の存在は僕たちにとって空気のように当たり前のものになった。そして、そのメリットやデメリットについて真面目に考えることはほとんどない。たまにふらっと議論が行われたところで「金? 必要に決まっているだろ? どうやって他人と取引するんだ?」とか「金のない世界? じゃあお前パソコンも電気もない世界で狩猟採集生活をするんだな?」といった浅薄な議論で打ち切られるのである。

アンチワーク哲学は議論の深淵に踏み込もうとするだけではなく、議論の必要性を呼び起こすきっかけになる。そして、貢献欲や力への意志といった概念は、安心材料となる。もし「金がない社会は大パニックになる」と誰もが感じていたなら、実際に大パニックになる可能性が高い。しかし、「大丈夫だ、多くの人は信頼できるしちょっとくらいのトラブルなら乗り越えられる」と感じていたなら、成功する可能性が高まる。

人間はフラスコに入れられた微生物ではない。思考と議論が可能な自由な存在なのである。自分たちが思うように社会を創造することが可能なはずだ。

■まとめ

こんなに長く書くつもりはなかったが、以上がアンチワーク哲学によるお金の考察である。とはいえ、アンチワーク哲学では、お金をなくすより前にベーシックインカムの導入が必要であると考える。ベーシックインカムはお金の権力としての機能を骨抜きにし、お金の存在価値そのものにゆさぶりをかける。お金の正体に関するアンチワーク哲学の議論が真に意味を成し始めるのはその後だろう。100年後の経済学者がこの文章を発掘することを願うばかりである。

あらゆる行為は命令により労働化する

塩を取ってくれる?」と言われたとき、あなたならどうするだろうか?

あなたが常識的な感覚の持ち主ならば、断ることはないだろう。

しかし「おい、塩を取れ」であったならどうだろう。あなたが常識的な感覚の持ち主ならば、「はぁ?お前しばいろか?」と拒否するだろう。

やらされる行為はまったく同じなのに、「お願い」か「強制」かによって、人のモチベーションには雲泥の差がある。この事態は「そらそうやろ」とスルーせずに真面目に考えた方がいいと思う。

人を強制することはむずかしい。なぜなら、人は強制されることを嫌がるからだ(もちろん、これはトートロジーだ。強制とは、そもそも嫌なことをやらせることなのだから)。嫌がる人を強引に行為させることは、基本的には不可能だ。

このことを最も理解しているのは3歳児の親だろう。「眠そうにしているから眠らせる」とか「おしっこをしたがっているからトイレに行かせる」といった、客観的にみて合理的だと感じる強制すら、一筋縄ではいかないのである。子どもは明らかに「強制そのもの」を拒否している。

大人も同様だろう。塩を取るなんて行為は造作もない。それでも、強制された途端に嫌になってくる。

ただし、命令してきた男が銃口を突きつけていたならば、まず間違いなく取ることになる。あるいは1万円札をテーブルに叩きつけたとすれば、同じように塩を取って渡すかもしれない。

それでも釈然としない。なぜ脅されたり、金で釣られたりしなければならないのか?と疑問を抱く。そして怒りが煮えたぎってくる。

一度そのような想いを抱えてしまったが最後、その男が次に金や銃なしで塩を取るように要求してきたならどうするか? 塩の中身を男の顔面にぶちまけることになるだろう。

金と銃はやりたくないことをやらせる脅しの道具である。金をもらえないならやりたくない仕事は、やりたくない仕事である金とは強制的に他者を動員するツールであり、権力そのものだ(「なぜ働くの?」と尋ねられたら「生きるため」と答える大人が大半であることがその証拠だ)。

ここで1つの疑問が生じる。なぜ僕たちは金を渡す代わりに「お願い」で済ますことができないのか? なぜ「ちょっと大根余ってない?」とか「服ほつれたから縫ってくれない?」とか「ごめん、ちょっと半導体工事立ち上げに協力してくれない?」とかそういうやり取りで世界経済が成り立っていないのか?

強制は、そもそも人のモチベーションを下げる。つまり金を渡せば人のモチベーションは下がる。この現象は心理学者がアンダーマイニング効果と名付けた普遍的な現象である。それでもなお僕たちは、金によってわざわざ人のモチベーションを下げてから、必要な仕事を誰かにやらせているのである。

順当に考えれば「わざわざ金で強制させずに、お願いしてやって貰えばいいんじゃないの? そうすればモチベーションがさがらないんだから」という結論が得られるのではないだろうか?

この疑問に対する最も率直な回答は、「強制しなければ誰もやりたがらないから」である。塩を取るような簡単な行為であればともかくとして、もっと骨の折れるような作業は、強制されなければやりたくない、というわけだ。つまり世界を成り立たせるのに必要な仕事は、強制されなければならないらしい。

果たして本当だろうか?

金をもらえないとしても、人は必要だと感じたならおしっこをするし、歯を磨く。子どものオムツを替え、風邪をひいた友達のために買い出しをするようなこともある。子どもが線路に落ちたなら助けようとするのが普通だし、友達の引っ越しを手伝うことに対してブツクサ文句を言う人も少ない。妹の結婚式のためにオープニングムービーを制作したとして、ご祝儀の免除を要求するような兄もいまい。

もちろん、このレベルの小規模な仕事ならば個人が戯れにやることもあるが、半導体工場を立ち上げて大量生産するためにグローバルサプライチェーンを展開しなければならないような仕事には、金と強制が必要不可欠なのかもしれない(朝から晩までラベルを貼り続けるような日雇い労働を喜んでやる人がいるとは思えない)。

だが、こればっかりはやってみなければわからないのである。アリストテレスすら奴隷のいない社会を想像できなかった。奴隷、つまり朝から晩まで命令を受けて仕事する都合のいい労働力がいなければ社会は成り立たないと感じていた。実際、奴隷がいなくても社会は成り立ったらしい。

ならば、労働そのものがなくとも、誰も強制されずとも、社会は成り立つのではないだろうか? そう期待せずにいることはむずかしい。

Linuxを作るような仕事。ティール組織のような組織形態。バーニングマンクリスチャニア。色々と可能性は存在している。ならば、世界全てを強制のない、労働のない経済システムで覆い尽くすことはできるかもしれない。

お願いと貢献の応酬で社会が成り立ったなら、きっと楽しいに違いない。BBQを企画するときのような、学園祭で店をやるような、自分たちの手で生活を作っているのだというあの手触り感とワクワク感に満ち溢れた社会である。楽しそうだ。

アンチワーク哲学が目指す「労働なき世界」とはこれである。ベーシックインカムによって金から強制力を奪い、最終的には金自体の撲滅を目指す。

金なんかに頼るよりも、よっぽど効率が良さそうなものなのだが、どうだろう。目指してみてもいいんじゃないか、人類よ。

労働とはなにか?

山内昶『経済人類学への招待』によれば、オーストラリアのイール・イロント族は「遊び」と「労働」を、メキシコのタラフマレ族は「働く」と「踊る」を、同一の言葉で表現しているらしい。

このような社会を山内は次のように表現する。

農耕が愛好家の花卉園芸に限りなく近づき、狩猟が王侯の特権ではない純粋なスポーツとなり、採集が茸狩りや山菜取りのような楽しいピクニックであり、漁撈が遊びや気晴らしとしての趣味的な魚釣りであるような、そうした労働の廃棄された社会

 

僕たちはついつい「未開人は1日に4時間しか労働しなかった! なんて自由な社会なのだ!」と未開社会にキラキラした眼光を向けるが、この発言は微妙に芯を外している

まるで彼らがその4時間を、チラチラと時計を見つめながら「まだ10分しか経ってないのかよ‥」などと心の中で悪態をつきながらパソコンの画面を虚な目で見つめ続ける五月病の新卒社員のような気分で過ごしているかのようではないか。しかし実際、彼らは遊んでいるのと気分は変わらなかったはずだ。

では、なぜ僕たちは「労働」を苦しいものであると捉え「もっとワークライフバランスを!」などと声高に叫んでいるのだろうか? そもそも僕たちの労働はなぜ苦しく、彼らの「労働らしき行為」はなぜ苦しくないのか?

まず、未開人は4時間労働だから苦しくなくて、現代人は8時間労働(か、それ以上)だから苦しいという考えが思い浮かぶ。もちろん、労働が長引くほどに苦しいというおおまかな傾向は見られるだろうが、恐らく決定的な要因ではない。なぜなら、1日3時間の労働でも、急に飛ぶバイトのエピソードには事欠かない上に、年中無休でイキイキと働く豆腐屋の店主のような人も掃いて捨てるほどいるからである。

そして、作業そのものに備わっている肉体的な負担に、労働の苦しさが由来するという考えは明らかに間違っている。なぜなら、人は余暇においても積極的にスポーツを行い、労働以上に肉体に負担をかけているが、それが辛いだなんて思わないからである。むしろ好きな人は積極的にスポーツを行う。それに、未開人たちの労働の方が明らかに肉体的な負担は大きいだろう。

となると、精神的な負担が原因だろうか? 明らかにそうである。では、イール・イロント族やタラフマレ族の「労働らしき行為」には存在せず、現代人の「労働」には存在する精神的な負担とはなんなのか?

それは支配されることであり、他者の命令に従属させられることである。僕は「労働」という言葉はこの観点から定義すべきだと考える。そして一般的な労働の定義は誤っていると主張する。

一般的に考えられているように「金銭を得るための活動」を労働の定義とするのであれば奴隷労働や家事労働があぶれてしまうし、生活保護の申請やパチンコも労働ということになってしまう。あるいは「自然に働きかけて生活手段や生産手段を生み出すこと」という古臭いマルクス主義らしき定義に則ってみれば、今度は家庭菜園や日曜大工が労働ということになる。

しかし「他者から強制される不愉快な営み」と定義すれば、日常的な労働の用法とピッタリ一致するはずだ(実際、フランス語で労働を意味し、求人誌の名称としても知られる「トラバーユ」は、もともと責め苦や拷問を意味していたらしい)。

そして、労働なる言葉を持たない人々がなぜ存在するのかも説明がつく。彼らの社会には恐らく支配や命令、強制がほとんど存在しないのだろう。だから労働という言葉を用意する必要がなかった。一見労働のように見える狩りや農作業は遊びや踊りとなんら変わらない行為なのである。

とは言え、経済理論という名のプロパガンダを信奉するピュアな人物なら次のように反論するだろう。「現代の労働とは自由な契約に基づいたものなのだから、決して不条理な支配などではない」と。

会社員として働いたことのある人の大半は、これが「民主主義」と同じく空虚な建前に過ぎないことを理解しているはずだ。なんらかの会社で働くならば、第一に上司や先輩、経営者、取引先の理不尽な命令に屈することが求められ、多くの人にとってはそれを拒否することは難しい(稀に拒否する強者もいるが、多くの人には難しい)。

もしも、会社員は支配されていないというのなら、ビッグモーターの社員たちは「街路樹に除草剤を撒け」とか「ゴルフボールで車をボコボコにしろ」と言われても拒否していたはずだ。好き好んでそんなことをする人間などいるはずもないのだから。1人や2人、クレイジーサイコパスがいることはあるだろうが、組織的にこのような事態が起きるのは、そこに支配があるからに他ならない。また、もしそれが支配でないのなら、過労死するサラリーマンなんて1人もいないはずだ。

支配とは、「やりたくないことをやらされること」だ。「やりたくないこと」を実行すれば不幸になる。なぜなら、「実行すれば不幸になるであろう行為」こそが「やりたくないこと」の意味だからだ(ただし、やっているうちに気分が変わって「やりたくないこと」が「やりたいこと」になることはあり得る。それが明るい社畜が誕生するメカニズムである)。

ではなぜ、僕たちは支配に屈するのだろうか。別に銃口を突きつけられているわけではないというのに。

さまざまな原因が考えられるが、究極的には「金を稼がなければ自分や家族が路頭に迷うから」という理由であることは明らかだろう。

逆に言えば、金を稼がなくても自分や家族が路頭に迷う恐れがないのであれば、会社員の支配は軽減される。ビル・ゲイツが部下になったとして彼にパワハラできる人などいない。なぜなら、彼が不愉快だと感じたなら即座にあなたの元を離れるだろうし、そうしても彼はまったく困らないからである。

つまり、労働の苦しみから逃れるためには、生殺与奪の権を他者に握られないことが欠かせない。僕がベーシックインカム固執するのは、BIは生殺与奪の権を誰もが取り戻すことができる唯一のシステムだと考えているからだ。

さて、支配から解放され、生殺与奪の権を人々が取り戻すことの影響は、計り知れない。

斉藤幸平のようなマルクス主義は、利潤追求のために人と自然を貪り尽くそうとする資本を憎む。確かに、結果として無限の経済成長を目指ざるを得ない資本は、資源と労働力を食い尽くし、コンクリートで地球を覆い尽くそうとしている。

だから資本の力を奪うためにアソシエーションして、生産手段を共有しようと、マルクス主義者は主張する。だが、彼らが見落としている点が1つある。資本の運動とは、歯車のように機会的に作動するものではない。資本が資本であるだけでは、増殖することはない。

資本の増殖運動は、紛れもなく人間の労働によって駆動されている。資本家は確かに無限の資本蓄積を望み、末端の人々に対して街路樹に除草剤を撒くようなプレッシャーを与える。労働者は資本の蓄積を望むとは限らないが、それでも生殺与奪を握る資本家に従属せざるを得ない。だからこそ資本が資本たり得るのだ。

裏を返せば、「労働者の生殺与奪を資本家が握っている」という資本の成立条件さえ覆せば、資本の増殖運動は回路ショートを起こす。それはすなわち革命である。

また柄谷行人も『世界史の構造』で指摘したように、株主支配を脱却し、労働者によるアソシエーションが行われたところで、結局のところ市場で生き残るには利潤追求をせざるを得ない。ならば「生き残ろうとしなくても、BIによって生き残ることができる状況」の方が、資本の増殖を止められるはずだ。

生殺与奪を握られるのでなければ、食い扶持を稼がなければならないという焦燥感がなければ、誰がアマゾンが禿げ上がるまで牛肉を生産しようと思うだろうか? 誰がビルが倒壊するまでパキスタン人をミシンと共に鮨詰めにしようとするだろうか?

支配は怠惰と無気力を生み出す。しかし、人間が怠惰を渇望することはあり得ない。支配から逃れるでもなく、それでも完全に支配されることを拒む体は、怠惰か無気力に身を委ねるのだ。あるいは、歯車を演じることに精を出す人間もいる。意識高い系がそれだ。

支配者は人間を歯車であると思い込む。そして、人間は歯車のフリをし、それに成功する。本物の歯車は融通の効かないガラクタに過ぎない。怠惰と無気力に浸かり切った人間の方が、よっぽど上手く歯車を演じる。

人間は歯車を演じられるほどに器用なのだ。彼らが労働や支配という軛から解き放たれたとき、一体どんな風に命が煌めくのか、僕にはわからない。

ベーシックインカムによって人々が支配から解放されたとき、何が起こるか予測することはできない。なぜなら、予測を可能にするものこそが支配だからだ。

同じように畑を耕す行為であろうが、それが自由な意志に基づいた行為なのか、命令によって行われた予定調和な行為なのかによって、天と地の差がある。このことを誰も理解していないらしい。

それは恐らく、誰も人の意志を信じていないからだろう。しかし、人には確固たる意志が存在することは否定のしようがない。そして意志による決定こそが幸福であることも同様だろう。

ここで、手垢に塗れたシニカルな決定論の台本をあなたが持ち出そうとするとき、その台本を読み解くという意志は紛れもなくあなたの命の煌めきである。

僕の理論を反証しようとするその意志こそが、労働なき世界を可能にするエンジンに他ならない。

僕は人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。


以上が、僕の労働観であり、アンチワーク哲学の労働観である。

アンチワーク哲学とはなにか?

■はじめに

ただ単に労働しないのではない。ただ単に怠惰なのではない。

労働とは罪であり、悪であると証明すること。そして、労働しないことを全面的に肯定し、実践すること。

その営みこそがアンチワーク哲学である。

これは世に存在するアンチワーク系の思想とは、明確に一線を画する

なぜなら、労働しないことを全面的に肯定する思想や哲学はほとんど存在しないからだ。

寝そべり族、だめライフ愛好会、アンチワーク、アナキズムコミュニズム、その他アンチ資本主義系思想など、世の中のアンチワーク系の思想や哲学は、極めて中途半端な仕事をしてきたと言わざるを得ない。

彼らは資本家を攻撃し、資本主義を攻撃し、金のために働くことから逃れようとする。しかし、どこかで認めているのである。「多かれ少なかれ、労働は必要である」「社会の何割かの人は必ず労働しなけらばならない」と。

つまり、彼らの主張は「8時間労働を4時間労働にしよう」とか「週休2日を週休4日にしよう」とかそのようなワークライフバランス主義なのだ。

あるいは「消費主義から逃れて山奥で、自分たちの必要な分だけ労働する自給自足をやるぞ!」といった清貧思想を唱える人もいる。

はたまた「AIやロボットで自動化して、労働なき世界を実現しよう!」といった安易なテクノロジー楽観論にすがりつくパターンも見受けられる。

もしくはFIREを目指すFIRE主義、とりあえずダラダラと過ごすことを推奨する怠惰系思想も存在する。

「アンチワーク哲学」という字面をみたとき、人はこれらのうちのどれかに分類しようと試みるだろう。しかし、アンチワーク哲学は、ワークライフバランス主義とも、清貧思想とも、テクノロジー楽観論とも、FIRE主義とも、怠惰系思想とも、根本的に異なる。むしろ、これらの思想は、資本主義や労働至上主義といった現在のメインストリームの思想を逆説的に強化していると考える。

これらの思想は、人々が無批判で受け入れている常識を前提としている。例えば、労働を全くゼロにすることは不可能であることや、生きるために労働が必要であること。また、労働とは畑を耕すような作業を指すという漠然とした定義。そして人間が何を欲望するのかについての一般論、などである。

アンチワーク哲学は、多くの人が疑ったことすらないこれらの常識が誤りであることを論証する。そして、そこから「労働なき世界」が可能であるという結論を導き出す。

「労働なき世界」とは、世界の誰1人として、1秒たりとも労働しない世界である。80億総無職。週休7日。完全失業率100%。GDPは0ドルである。

そこでは他者からの命令によって働くことはなく、誰もが自由に生きている。農業や畜産、工場生産やトラックの運転を楽しむ人もいれば、ゲームや漫画、バスケットボールやロックフェス、を楽しむ人もいる。1日中昼寝する人もいれば、あくせくと動き回る人もいる。金という存在は端的に消え去っているか、骨董品のような扱いを受けている。それでいて衣食住の必然性は当然の如く満たされている。そんな世界である。

繰り返すが、これはAIの進歩を盲信するテクノロジー楽観論ではない。AIが労働を代替することはあり得ず、むしろ労働を増やすことにしか役立たない。

また、縄文時代の暮らしに立ち帰るべきだと騒ぎ立てる清貧思想でもない。「労働なき世界」ではゲームや漫画といった娯楽もそこら中に溢れかえっている。

さて、そろそろ僕のことを論理的思考力が欠如している夢みがちな狂人であると結論づけて、このページを見なかったことにしたいという衝動に駆られる人が出てくる頃合いだろう。

僕は、そういう人にも理解してもらいたいという一心でこの文章を書いている。つまりここでブラウザバックされることは僕の本意ではない。

そろそろ本題に入ろう。そして可能な限り手短に済まそう。まずはアンチワーク哲学の前提であり根幹となる部分、すなわち「労働の定義」から。

■労働とはなにか?

少し長くなるが、拙著『働かない勇気』での哲人と青年の対話が、アンチワーク哲学における労働の定義をわかりやすくまとめているので引用しよう。

哲人:
ところで、あなたにとって「労働」とはなんですか?

青年:
いきなり何を言い出すのかと思えば、またそんなわかりきったことを。今さら小学校の授業のような質問に答えるのも癪ですが、まぁ、とっくに賽は投げられていますから、とことん付き合ってやりましょう。
ずばりお答えします。労働とは、生活の糧のため、社会のため、人間が生きていくために必要な営みです。主に金銭を得るために行い、多くの場合それは苦行であり、しかしそれでも避けられないものです。農家にとっては畑仕事。ドライバーにとっては運転。料理人にとっては料理を作ること。プログラマーにとってはプログラミング。僕のような営業職にとってはプレゼン資料の作成や商談。違いますか?

哲人:
では、農家にとっての農作業は労働なのに家庭菜園は趣味になる理由や、レストランで料理することは労働なのに家庭でパーティを開くのは余暇になる理由をご説明いただけますか?

青年:
ええい、何度言えばわかるのです! 金ですよ、金! 金を稼ぐ必要性があるからこそ労働に責任が生じ、ときに不愉快で、嫌悪されるのです。趣味はいつでも辞められる気軽なものである反面、社会に必要なものを提供できない、違いますか?

哲人:
では、家事労働や奴隷労働は、金をもらわないから労働ではないということですか?

青年:
まったく、重箱の隅をつついて鬼の首を取ったおつもりですか? そんなもの、些細な例外に過ぎません。確かに家事労働や奴隷労働は金をもらわないが労働です。しかし、他者から強いられているが故に不愉快であり、「労働」の名に値するものです。これで満足でしょうか?

哲人:ありがとうございます。今おっしゃっていただいたことは「アンチワーク哲学」における労働の定義そのものです。「アンチワーク哲学」では「他者から強制される不愉快な営み」を労働と定義しています。

哲人が取り上げた農業と家庭菜園の違いは、アンチワーク哲学にとっては極めて重要である。

僕たちが普段使用している「労働」という言葉のイメージには1つの矛盾が存在する。あたかも僕たちは農作業やトイレ掃除、書類作成といった作業そのものの性質が、労働を労働たらしめているかのように考えている。そして作業そのものの性質によって、それが苦行であるか、娯楽であるかが決定されるかのように思い込んでいる。

もちろん、農業と家庭菜園の違いについて指摘すれば、人々は青年と同じように、すぐさまそうではないことに思い至ることになる。

しかし、日常的な実践のレベルでは、おそらく彼らは作業そのものを嫌悪していると感じている。カフェ店員が「働きたくない」という愚痴をXにこぼしたとして、それはコーヒーを淹れたくないとか、テーブルを拭きたくないという意味であると人々は受け取るだろう。

その反面、「もうコーヒーなんて淹れたくない」とか「テーブルを拭くのはもう嫌だ」などという愚痴を見かけることは稀である。仕事の愚痴というと大抵「あの上司がくそ」や「あの客が腹たつ」といったように支配との関係でしか生じない。

故に、アンチワーク哲学は、その作業が嫌悪すべき労働なのか、そうではないのかを決定する要因は、他者から強制されていると本人が感じているかどうかだと考える。

もちろん、異論は承知している。おそらくあなたが抱いた異論は以下のようなものだろう。

青年:
ちょっと待ってください。それが労働の定義なのだとすれば、労働を楽しんでいる人はどうなるんです? 自営業の人は? 彼らは強制されているだなんて微塵も感じてないのではありませんか?

哲人:
おっしゃる通りです。その場合、彼らが行なっているのは労働ではないと考えます。広告マーケターが熱心におにぎりのキャッチコピーを考えているのも、誰も読むことのない会議資料を夢中になって作るサラリーマンも、彼らがそれを自発的に楽しんでやっているのなら、それは労働ではないと考えます。

青年:
何を言うのですか? それらが労働でない? どうやらあなたはまるでボランティアだと言い張ってサービス残業を強要するブラック経営者のようだ。たしかに「これは労働ではない」と言い張るのなら、「労働なき世界」は可能ですよ。しかし、それはとんだ茶番です! そのような詭弁で私をケムに巻いて満足するおつもりですか?

もちろん僕は「どんな仕事でもやりがいはあるのだから楽しんで取り組むべき」といった根性論を唱えたいわけではない

実際にブラック経営者のやりがい搾取を耐え抜き、サービス残業にやりがいを見出すようになった人は幾らか存在するだろう。アンチワーク哲学の定義では、彼が行っているのは労働ではない。そこに至るまでのプロセスが苦行だったとしても、本人が満足しているのであれば、問題はないとアンチワーク哲学は考える(ただし、そのプロセスに問題はある。プロセスが強制されているなら、それは労働だからだ)。

ひとまず、アンチワーク哲学はこのように労働を定義すると理解してほしい。その上で、アンチワーク哲学が何を目指しているのか、順を追って説明していこう。

■アンチワーク哲学が目指す世界

労働が他者から強制される不愉快な営みだと定義するのならば、「労働なき世界」とは「誰もが自発的にやりたいことをやる世界」となる。

「成立するはずがない」「そんなことは不可能なのだから考えるだけ無駄」という考えを度外視すれば、このような世界は理想的であることに誰もが同意するだろう(成立するかどうかは後述する)。

アンチワーク哲学は徹底的に主観と主体的意思決定を重視する。

この仕事はエッセンシャルワークだから必要で、この仕事はブルシット・ジョブだから必要ない、などという理由で、オフィスワークを辞めて畑仕事を始めるように命令することはない。

アンチワーク哲学は誰も読まない資料づくりであろうが、やっている本人が自発的な意思に基づいて、楽しくやっているのであればそれでいいと考える。

ここで自発的な意思という言葉にも注意が必要だろう。僕たちの社会では誰もが自発的な意思のもと雇用主と契約を交わして労働しているということになっている。明らかにそうではないケースの方が多いことは誰もが知っている。

「今日は3時間だけ働きたい気分だなぁ」と考えてその通りに実行したなら、即座に彼はクビになる。「この仕事は気分が乗らないからやりたくない」なんてことを言っている人も同様だ。

僕たちは金がなければ生きられないという焦燥感から仕事をし、雇用主や上司、クライアントの命令に屈服する。明らかにやる意味がない仕事であろうが拒否することはできない。そして、やることが残っていようが残っていまいが、決められた時間まで職場に縛り付けられることを強制される。それは多くの場合で不愉快であることは誰もが知っている。

もちろんスキルを磨いてフレックスタイム制の仕事に転職することはできる。不愉快さを乗り越えてやりがいを見つけることもできる。繰り返すが、それで仕事が楽しくなって続けたいと思えるのなら、それは労働ではない。

しかし多くの人はそうはならない。逃げたくても逃げられないという状況から仕方なく妥協し、なんとか労働を受け入れているのが実情だろう。

彼らを労働から解放することがアンチワーク哲学の目的だ。さて、ここで最重要の疑問点を避けて通ることはできまい。すなわち「そんな世界は可能なのか?」である。

■そもそも労働をする必要はない

労働から人々が解放されたなら、彼らは日がな一日ポケモンGOをプレイしたり、TikTokを眺めたりして、社会に必要な生産を誰も行わなくなるだろう」というのが、真っ先に思い浮かぶ反論である。

この点に関しては2つの角度から否定することができる。

まず1点、この社会における労働が、ますます無意味なものになっているという点だ。

軍拡競争のような営業合戦。誰にも使われることなく捨てられた商品。詐欺のような保険商品や投資商品。無駄な会議や資料作り。権力者を満足させるためだけの接待と癒着。

エッセンシャルワーカーの賃金は安く、常に人手不足。そして、何もせず土手っ腹を肥やすだけの禿げ上がったおっさんが大金を手にする。若者は土手っ腹の禿げ上がったおっさんを目指して、大手起業に就職しようとする。

その無意味な椅子取りゲームを教育産業が煽り立て、人材業界が煽り立て、意識高い系ビジネスが煽り立てる。教育産業は成長し、人材業界も成長し、広告・コンサル・マーケティング業界も成長し、意識高い系ビジネスも成長する。しかし全体の経済成長は止まっている。これは一体何を意味するのだろうか?

先ほどあげたビジネスはいずれも、「金儲け」を約束するビジネスだ。誰かが金儲けをすることは、全体のパイを増やして、社会全体を豊かにすることを意味していると漠然と想定されている(トリクルダウン理論をはじめ、金持ちが金持ちになり格差が拡大することは、全体が豊かになるという前提のもと正当化されてきた)。

ところが、経済成長が止まっているということは、これらの成長しているビジネスは、武器商人のようなもの、ということになる。椅子取りゲームを煽り立てて、人々を無意味な競争に晒し、全く全体のパイを増やしていないわけだ。

仮に、みんなが拳銃を突きつけあって強盗し合う世界なら、個人が拳銃を手にすることは理にかなっている。誰かが大砲を持ったなら、他の個人も大砲を持つことは理にかなっている。そして戦車、戦闘機、ミサイル、核兵器…とスケールアップしていくことになるだろう。その中で一人だけ核兵器保有しないとすれば、すなわち学歴や広告やマーケティングに投資しないとすれば、一人だけ損をすることになる。

しかし、全体として見たときに、全ての個人が核兵器を所有する社会は、どう考えても馬鹿馬鹿しい。ならば同じように、椅子取りゲームを煽り立ててひたすらに学歴や広告投資、マーケティング合戦をスケールアップさせていく社会も、どう考えても馬鹿馬鹿しい。

しかし実際はそのような社会に僕たちは突入している。グレーバー『ブルシット・ジョブ』によれば、先進国の37%から40%は、自らの仕事が無意味なブルシット・ジョブであるという調査結果が得られたという。

ブルシット・ジョブが行われるオフィスビルを建てる仕事、ブルシット・ジョブに振り回されて過剰生産に陥った一次産業や二次産業を含めれば、50%以上は無意味な仕事だと考えてもさほど的外れでもあるまい。

繰り返すが、無意味な仕事だろうがなんだろうが、本人が楽しいならそれでいい。だが、楽しくないならやめればいい。ここで言いたいのは、みんながやめても実はそこまで困らないということだ。

■金儲けや競争はイノベーションを起こさない

「不毛な種類の競争があるとはいえ、競争にもメリットはある」と人は言うだろう。イノベーションを起こして社会を豊かにしてきたのは、「金儲けしたい」という欲望に突き動かされた競争であったというのが、その主張の骨子だ。

一理なくもないが、正しいとは考えずらい。まず、「イノベーション」と聞いて思い浮かべるインターネットやコンピューターに関連するテクノロジーの数々は、ほとんどが税金によって育てられた軍事技術の転用である。

戦争のために作られたテクノロジーは、当然のことながら赤字前提で作られている。コンピューターの発明に関わった人々は別に億万長者になっていない。彼らの発明を我が物顔で独占した人々が億万長者になっている。チューリングノイマン、あるいはアインシュタインニュートンが億万長者になったと言う話を聞いたことがあるだろうか。

イノベーションとは才能と知的好奇心に溢れた個人が、金儲けを度外視できるように、生活保障と研究リソースを与えられたときに生じると考えて方が理にかなっている。

■人は怠惰なのではない

「ならほど、世界の50%の労働が必要ないとしても、残りの50%は必要なのだから、やはりこれらの労働は必要なのではないか?」という疑問に答えるのが、もう1つの論点である。

この疑問は、人が怠惰であることを前提としていることに注目すべきだろう。すなわち、皆を自由に放っておくならば、誰も有益な作業を行うことはないだろう、というわけだ。

確かに人は労働を嫌悪する。だが、人が労働を嫌悪する理由は、人が怠惰だからではないとアンチワーク哲学は考える。

人が労働を嫌悪するのは、強制され、命令され、逃れられないからである。人は強制されればされるほど、その行為を嫌悪する。

例えば、「塩を取ってほしい」と誰かに頼まれたとき、普通の人ならば特に気にすることなく取るだろう。だが、「おい、塩を取れ」と言われたなら、取らないかもしれないし、取るかもしれないが嫌な顔くらいするだろう。

嫌がる様子を見て命令した側が「お前は怠惰な人間だ」とか「人は塩を取ることを嫌悪する生物だ」などと結論づけたなら、これほど的外れなことはない。しかし、「人間は怠惰である」と結論づけている人は、これと同じことをしている。

ワークライフバランス主義怠惰系思想が見誤っているのはこの点である。彼らは次のように前提している。

人は怠惰であり、他者への貢献を欲望することなどない。しかし人は嫌々ながらも生命に必要な作業をこなさなければならない。だからこそ効率化を進めてその時間を減らさなければならない。そして好きなことをする余暇の時間は多ければ多いほどいい。

この発想は誤りとまでは言わないものの、人が労働を嫌悪する理由を見誤っているのだ。カフェ店員の話からも明らかなように、人はコーヒーを淹れる作業そのものを嫌悪しているのではなく、他者からの強制を嫌悪している。ならば、強制の構造を無くしてしまえば、カフェ店員はコーヒーを淹れることを純粋に欲望することができるとアンチワーク哲学は考える。

■人は他者への貢献を欲望する

塩をとってほしい人が同じ食卓についていて、彼から命令されるのでなければ、塩をとってあげたい気持ちになるのが一般的な感覚だろう。むしろ、「塩をとってほしい」と言われて「嫌だ」と断る方が苦痛に感じるに違いない。

塩をとるといった些細なレベルだけでもない。たとえば文化祭の出し物の準備をしているときに、周りのみんなは一生懸命に準備をしているのに、自分ひとりだけ何もせずにボケっと突っ立っていることは苦痛以外の何物でもない。そそくさと帰って家でYouTubeを観ることに成功したとしても、その気持ちはチラリとも休まらないだろう。彼は明らかに「自分もクラスに貢献したい」という欲望を持っている。

僕の親戚たちは、僕の息子に対してあれこれと食べ物を提供し、世話を焼こうとする。何かと口実を見つけては一緒に飯を食おうとし、プレゼントを贈ろうとする。親戚に限った話ではない。そこら辺の名前も知らないおばあちゃんが急にお菓子をくれたりする。

彼らも明らかに貢献することを欲望している。しかし、年寄りが孤独に暮らしていると、貢献する相手がほとんどいないケースの方が多い。夫に食べ物を出しても碌に食欲はないのだ。だから、「子ども」という貢献を許された相手に対して、際限のない貢献を行う。

年寄りだけではなく子どもも同様だ。僕の息子は、ご飯を食べることは嫌がるくせして、料理を手伝いたがる。トイレに行くのも嫌がるくせして、掃除を手伝いたがる。もちろん、彼の能力は低く、戦力として数えることはできない。しかし、彼が貢献することや、少なくとも人への貢献と見做される行為を欲望していることは疑いようのない事実だ。

明らかに人は貢献を欲望している。アンチワーク哲学ではこれを貢献欲と呼ぶ。しかし、「貢献」に対して「欲望」という言葉を使用すると違和感がある。そんなものを欲望するはずがない、と誰もが感じているのだ。

「それは自分の評判を高めるためであって、貢献を欲望しているわけではない。貢献欲など存在しない」という批判が真っ先に思いつくだろう。しかしこれは少し考えるだけで的外れであることがわかる。「それは子孫繁栄のためにやっているだけであって、セックスを欲望しているわけではない。性欲など存在しない」などと言う人は誰もいないのだから。

実際に彼がセックスを求める行為を行っていたなら、人は直ちに彼は性欲に突き動かされていると判断する。しかし、彼が貢献をしていても、彼が貢献欲に突き動かされているとはみなされず、その裏側に真の動機なるものが存在すると勘繰るのだ。

なぜ、このような事態が起こっているのだろうか?

■金が、貢献への欲望を見えなくしている

先ほど、(たとえば塩をとってあげることのような)人が欲望する行為であっても、それを強制されれば欲望が喪失されることを指摘した。そして金とは、一種の強制のツールであることも確認した。

金とは他者を半強制的に行為させる権力である。店で何かものを買うやサービスを受けるとき、あるいは誰かを金で雇用するとき、多くの場合それを拒否することはできない。

金の対価として何らかの行為を行う場合、その行為を嫌悪する可能性が高まる。もちろん、100%嫌悪するとは限らない。彼が十分に経済的に豊かであり、依頼を拒否するも引き受けるも自由である場合は、その行為を嫌悪する可能性は低いだろう。しかし、家賃を何ヶ月も滞納して仕事を選ぶことができないような人は、仕事を嫌悪する可能性が高い。あるいは住宅ローンに縛り付けられて転職するにもできないような人も同様だ。

さて、金を渡されてトイレ掃除を命令される人は、その労働を嫌悪していく。その結果、人は一般的にトイレ掃除という営みを欲望することなどあり得ないという発想が社会に広まった。同様に、料理すること、年寄りのおむつを替えること、芝生を手入れすることなどといった、金を受け取って行うような行為に対しては欲望という言葉を使用しなくなった

逆に、欲望という言葉は、金を払って他者を動員することで享受するような行為にだけ使用されるようになった。飯を食うこと。暖かい布団で寝ること。ゲームをプレイすること。服や鞄を買うこと。レジャーランドに行くことなどである。

しかし本来は、人の欲望は多様である。飯を食いたいという欲望と同じかそれ以上に、誰かに飯を食わせたいという欲望を抱くのが人間である

もちろん、人は他者に貢献したいと望むのと同じように、他者を貢献させることも欲望する。しかし、他者を自分の思い通りに貢献させるのは簡単ではない。銃口を突きつければ貢献してくれることになるが、銃口を突きつけ続けるのは骨が折れる。だから命令のツールとして金が登場した。

そして金により人は怠惰であるということになった。人が怠惰であれば、命令する側にとっては都合がいい。なぜなら、彼が命令を行う正当性が生じるからだ。「お前たちは怠惰なのだから、命令されなければならない」というわけだ。

しかし、もし人は怠惰ではなく、自発的に貢献を行うのだとすれば、命令を行う上司も、金の存在も、つまり労働も必要なくなる。アンチワーク哲学の行う労働批判が革新的なのはこの点だろう。

逆に、この意味で、人を暗黙のうちに怠惰だとみなすアンチワーク系思想は、現体制へ本質的な批判ができていない。

■大切なのは主体的な選択

おさらいしよう。人はトイレ掃除そのものを嫌悪するのではなく、トイレ掃除を誰かから強制されることを嫌悪する。ここで重要なのは、彼が主体的に選択しているかどうか、だろう。

注意しておきたいのは、完全な自由意志などは存在しないという点だ。「塩をとってくれ」と言われて塩をとった人物は、そう言われなければ塩を取らなかっただろうという意味で、100%自由な意志によって塩をとったわけではない。しかし、明らかに彼は自発的に塩をとったという感覚を抱いている

あるいはお腹を空かせた子どもにお菓子を上げる老人も同様だ。子どもが物欲しげにこちらをみていたという状況があったとしても、老人は自発的な意志でお菓子を与えたと感じることだろう。

つまり、「自分は主体的に選択した」という実感さえあればいい。彼は自分で選択したと思い込んでいるが、実際は選ばされているのではないか?などと邪推する必要はないのである。

言い換えれば、金で雇われていようがなんだろうが、彼に対して「あなたは強制されているのですよ?」などと嘯く必要はない。彼が「俺は俺がやりたいからこの仕事をやっているのだ」と感じているなら、彼は欲望が満たされているということになる。

アンチワーク哲学が目指しているのは、誰もが主体的な選択を行う世界である。誰もが主体的に選択を行っているのなら、彼は欲望が満たされ、幸福になれると考える。

■必要だと思うなら、誰かがやるはず

歯磨きが好きな人は滅多にいない。それは確実に退屈な作業だろう。

しかし、歯磨きを労働だと考える人もいない。めんどくさがりながらも人は歯磨きをすることを選択し、特段そのことに不満を抱くことはない。

なぜなら、必要だと感じているからだ。

必要だと感じていたならば、その作業が多少退屈だろうが人はやる。逆に歯磨きしない方が気持ち悪くなる。

真に人々が自由に選択できる社会なら、このような事態が社会全体で起きると考えられる。先ほど指摘した通り、他者への貢献は人々がイメージするほどの苦行ではないとは言え、それでも退屈な作業は存在するだろう。しかし、必要だと感じたなら誰かがやるのである。今のように労働に忙殺されていないなら尚更だろう。

ベーシック・インカムが自由な社会が実現する

では、どうすれば自由な社会を実現できるのか? アンチワーク哲学の解答はベーシック・インカムである。

ベーシック・インカムの骨子は自由の解放である。ここでいう自由とは、命令に従わない自由や、嫌気がさしたら逃げ出す自由を意味する。どこで何をしていようと生活が保障されているのなら、不愉快な職場からはすぐに逃げられるし、学校や家庭からも同様だろう

そうして人は主体的な意思決定により仕事を選ぶ。あるいは全く仕事をしないことを選ぶ。人が他者への貢献を欲望することは先述した通りだ。生活の必然性に脅されていないのであれば、理論上あらゆる行為が自発的な行為となる。銃口突きつけない限り、誰もあなたに命令できないのだから。

イノベーションはいま以上に加速するだろう。

必要な仕事は誰かが必ず成し遂げるだろう。

■金は必要なくなる

金とは命令のツールとしてだけではなく、他者の貢献を測定するツールとして機能している。では、そもそもなぜ測定する必要があるのか?

単純である。人は怠惰であると想定しているからだ。

「これだけ貢献したのだから、これだけよこせ」という発想は、自分も相手も怠惰であり、貢献を嫌がるものだと想定するから生まれる。しかし、皆がそこら中で好き放題に貢献しているのだとすれば、わざわざ測定する必要はない。

金の測定には、膨大な労力が注ぎ込まれている。銀行、経理、税金、レジ、キャッシュレス決済、ポイント、現金輸送、金庫などなど。これらがなくなるなら、なくなるに越したことはないのである。

ベーシック・インカムによって、金のために行動する人が減っていけば、人が自発的に貢献するという事実が白日の元に晒される。そのとき金の存在に疑問を抱かずにいることは難しいだろう。

アンチワーク哲学は、最終的には金の廃絶を目指す。その方が合理的で、効率的だからだ。先述の通り、金は人のモチベーションを損なう効果がある。その上、管理に膨大なコストがかかっている。人の社会を組織化する上で、とんでもなく非効率なツールなのだ。

■規模の経済をどうやって実現するか?

金のない社会で最も苦労するのは規模の経済を実現することだろう。なるほど100人やそこらなら自発的に連携することはできるかもしれない。だが、現代のグローバルサプライチェーンに携わる人間は膨大であり、アメリカ人とベトナム人と台湾人と日本人が連携していたりする。またコツコツと単純作業をする東南アジア人を大量に動員しなければ規模の経済は成し遂げられない。これを、金というツールなくして実現できるだろうか?

こればかりはなんとも言えない。だが、7万人が金なしの経済を実現するバーニングマンなるイベント、グローバル企業からトップダウンマネジメントを排除したティール組織、国家なしで運営された石器時代の都市の数々、アナキストたちの社会、クラウドファンディングなど、様々な参考例はある。

恐らく、画一的なやり方ではうまくいかないだろう。それぞれの組織が、それぞれ最適な方法を見つけ出すほかない。

とはいえ、いきなり金がなくなるわけでもあるまい。ベーシック・インカム後しばらくは金を頼って人を組織化していけばいいし、最終的に残ったっていい。ベーシック・インカムがあれば金の「強制」という側面は弱体化する。そうなっているのなら、大した問題はないだろう。

■人が自由を恐れることはない

さて、自由な社会などという理想を掲げると、「自由を与えられても困惑する人が大半であり、自由を求めない人もいる」などという批判が出てくることも想定される。自分の頭で考えられる自立した個人などというのはほとんど存在しない、というわけだろう。

確かに一見すると自由を恐れているように見える人は多い。だがよくよく考えてみれば、彼が本当に恐れているのは自由ではなく評価なのだ。

企業説明会の場で、服装自由と言われて短パンとサンダルで出かける人はいない。無難にスーツをきてくる人がほとんどだ。一見すると彼らは自由を恐れているように見える。しかしそれは、そこにいる面接官に好印象を与えなければ就職の見込みがないことから、面接官の好む服装を邪推し、結果的にスーツが無難であるという結論に至っただけに過ぎない。採用か不採用を決定するということは、ある意味で生殺与奪を握られていると言える。

生殺与奪を握る相手に評価されるとき、人はどう振る舞えばいいのかわからず狼狽える。間違っても自由に振る舞うことなど論外であると考える。だから自由を恐れているように見える。

しかし、ベーシック・インカム後の世界においては、誰一人として生殺与奪を握られることはない。誰にどう評価されようが路頭に迷うことはないからである。つまり、人々は自由を謳歌することができるはずだ。

自由や主体的な決定は、強い意志と優れた人格を備えたエリートの特権などではない。人は生まれたときから自由であり、主体的な決定を繰り返して生きている。しかし、単にそれを抑圧するシステムが存在しているだけである。

それに、本当に自由や主体的な決定ができない人は、誰かの命令下で働けばいい。そうする自由すら、ベーシック・インカム下の社会では与えられる。ただし、いつでも抜け出すことができるという点で、今の社会とは根本的に異なっている。

■あらゆる価値観が転倒されていく

支配の構造が消え去れば、「欲望をセーブして労働し、欲望の解放として余暇を楽しむ」という構造が崩れ去り、すべての行為が欲望のままに行われ、すべての行為が余暇となる。

このとき、「生きるため」「食っていくため」という僕たちを究極的に縛り付けている前提条件も更新を迫られるだろう。

また、家族や学校の概念も更新されるだろう。

■まとめ

駆け足になってしまったが、これでアンチワーク哲学の概要は掴めたと思う。細かい論点は抜け落ちているので、これを読んでくれている人はおそらく疑問点や反論をいくつか思いついたことだろう。そういう方は是非コメントいただきたい。アンチワーク哲学はまだまだ発展途上だ。議論を経て磨き上げる必要がある。

アンチワーク哲学は人間の欲望を解放することで労働の撲滅を目指す。誰もが自由で主体的に生きられる社会が理想的だということに反論する人はいないだろう。「不可能である」という反論を除けば。

だが、僕は可能である根拠をここに書いてきた。不可能であるとする僕たちの思い込み(人間は怠惰である、といった類の)は社会的に作られたフィクションであると指摘した。

これは社会全体を揺るがす思考革命である。この社会の基盤にある、ありとあらゆるフィクションを攻撃し、覆そうとしているのだから。過激思想と呼んでも差し支えないだろう。

難しいことは何も言っていない。ただ、あまりにも常識とかけ離れているが故に、難解な印象があることは否めない。

ただ、これからの社会に間違いなく必要な哲学であると確信している。労働が引き起こす問題を、僕たちはもはや無視することはできない。

労働を撲滅しよう。それは未来の子どもたちのためであり、僕たちのためでもある。

※さらに理解を深めたい方は以下の電子書籍も参考にしてほしい。対話形式に仕上げているので、比較的読みやすいと思う。

※この記事にいただいた質問に対する回答はこちら。

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