アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

アンチワーク哲学による行為と欲望の考察

 

■人が欲望するもの

可愛い子どもとは誰だろうか?

よく大人の言うことを聞く子? 勉強ができる子? お手伝いをする子? いや、究極の愛されっ子の特徴は、よく食べる子である。

このこと自体、私たちが人間に対して抱いている常識とは思いっきり矛盾する。人は利己的であり、ミニマックスの原理で動くと、一般的には考えられているのだから。料理は、死ぬ思いでかき集めてきた自分の金を削って、せっかくの休日に手間暇をかけて、ようやく作られる。それだけのコストをかけたものを、自分で独占するのではなく、他人が取り上げてしまうのだ。

ところが、それに対して「クソ、あいつ好き放題食べやがって‥」と文句を言う親戚のおばちゃんはいない。むしろよく食べる子は可愛がられ、また次も山盛りのご馳走と共に迎え入れられることになる。

もちろん、このことも無理やりミニマックス戦略に当てはめることは可能だ。彼女は自分の名声を最大化するためのコストを投資し、その投資を受け取る対象としてよく食べる子を打算的に可愛がっているにすぎない、というわけだ。どんな行為においても、最大化しようとする何かを見つけることは可能だ。匿名の寄付ですら、自分の満足感を最大化しようとしていると解釈できるのだから。

しかし、これも無理がある。なぜならその場合、食べずに遠慮する子どもの方が重宝されるはずだからである。食べない子ども相手に料理を提供したという事実だけで、評判の向上という効果は得られるのだ。あとは自分が食べた方が、その分のカロリーや満足度を得られるため、トータルで得をしているはずだ。しかし、子どもに提供するはずだった食事を1人で寂しく食べることは、この上なく苦痛であることは想像に難くない。

もし科学的な論理的一貫性を保持しようと思うなら、人が飯を食えば食を欲していると解釈するのと同じように、人が貢献するなら貢献を欲していると解釈すべきだろう。

アンチワーク哲学は、徹底的に行為と欲望の哲学である。行為を見つめ、その行為はすべて欲望に突き動かされていると解釈する。

例えば人は食事を摂る。その行為を見て「彼は食を欲していた。つまり食欲に突き動かされた」と解釈するのと同じように、誰かが子どもに貢献したなら「彼は貢献を欲していた。つまり貢献欲に突き動かされた」と解釈する。

そもそも食欲とは、現実を構造的に説明するために導入された仮想的な概念に過ぎない。性欲や睡眠欲、権力欲、金銭欲も同様であり、現実に「食欲」とラベルが貼られたホルモンが脳内で分泌されているわけではない。「そういう欲が存在することにして会話しましょう。その方が会話がスムーズだから」という約束事に過ぎないのだ。しかし、この仮想的な概念は、確固たる現実のパッケージを被りノーチェックで流通している。一方で、貢献欲なる概念はそもそも世間に存在していない。その結果、人は食や性、睡眠、権力、金ばかりを欲するが、他のものは欲さないかのように捉えられているのだ。

これはイデオロギーに支配された非科学的な態度だと言っていい。科学的な態度を一貫するなら、実際に起こっていることを観察して、それぞれの事実を平等に扱わなければならない

僕たちの目の前にあるのは、人間があまりにも多様な行為を実践(欲望)する事実だ。ラーメン二郎をたらふく食べること、ホームレスに炊き出しをすること、豆袋に指を突っ込むこと、証明写真機の下に捨てられた失敗写真を集めること。あまりにも多様な行動をとるため、そこに一貫性を見出すのは難しいように思う。

だが、アンチワーク哲学は説明を試みる。

■行為はどこへ向かうのか?

まず、行為とは、完全な物理法則のまま予定調和的に世界が進行しているところに、予定調和を乱すなんらかの変化をもたらす。落下する石は物理法則に従えばそのまま落下する。だが僕が受け止めれば、止まる。受け止めなければ止まらない。この手の変化を起こすために人は行為する。逆になんの変化ももたらさない行為は存在しない

人が行為を欲するということは、変化を欲するということである。自らが意志し、行為し、現実を変化させること。これこそが人の欲望の源泉である。

行為の前には予測がある場合もあるが、ない場合もある。予測がない場合とは、赤ちゃんが無秩序に手足をバタつかせるような行為であるが、その中で赤ちゃんは予測可能性を高めていく。何度か繰り返したのちに、「手足に意識を傾ければ、手足がバタつく」と赤ちゃんは理解する。そしてどうやら手足は自己の意識と接続されていることに気づき、身体と呼ばれる存在を認識する。手足を、どこかに向けると、なにか感覚が変化する。物に触れているという状況を知覚する。物が動く。そんなこんなで、赤ちゃんは予測可能性を高めていく。

人は予測通りに現実が変化することに満足する。豆袋に指を突っ込めば、快適な感覚が指から感じ取られることを人は予め知っていて、その通りに快感がやってくることで、人は自らの予測可能性の確かさを確認する。

一方で人は、予測可能性の範囲を拡大したいとも考える。もしそうでないなら、赤ちゃんはわざわざハイハイを覚える必要があるだろうか? そんなことをしなくてもミルクと暖かい毛布は提供されるのだ。明らかに人は、予測可能性の範囲を拡大したいという衝動を持つ。

そして、一度確立されたように見えた予測可能性の世界は、安住の地である。安住の地の中で予測が外れるとき、人は苛立つ。立とうとしても立てないとき。針が糸を通らないとき。いつも優しいママが命令を聞いてくれないとき。

赤ちゃんの予測可能性の拡大は物質世界だけではなく、他者にも及ぶ。泣けばミルクが出てくる。オムツを替えてくれる。不快感から解放してくれる。といった具合だ。それらは赤ちゃんにとって手足を動かすことと同じような、絶対的な法則のように感じられるのに、稀にその通りに反応しない場合には、強烈なストレスに襲われるのだ。

もちろんこれは赤ちゃんに限らない。他者の支配に慣れ親しんだ人が、他者が思い通りに動かないときは強烈なストレスを感じる。

さて、大人になれば安住の地に引きこもってばかりになるのは、僕たちにとって見覚えのある現象だ。予測可能性の拡大とは、冒険であり、成長であり、勉強であり、失敗を受け入れることである。予測できない領域を予測可能にするためには失敗が必要なのだ。

様々な理由から、そのリスクを取れなくなった大人は、安住の地の守りを固めようとする。大人が前例主義や権力のヒエラルキー構造に固執するのはこのためだろう。

とは言え、人は飽きる。なぜなら人は根本的に予測可能性の拡大を望むからである。一方で、安住の地を手放したくない。アンビバレントな感情に板挟みになる中で、人は折衷案を思いつく。安住の地の中で、退屈をしのげる程度の予測可能性の拡大を欲するのだ。それは娯楽であり、トレンドであり、ファッションである。

完全に予測可能な音楽や映画は誰の目から見てもダサい。極限まで予測可能性の世界に安住している人ならば、水戸黄門を延々繰り返し視聴し続けるわけだが、大半の人は変化を欲する。つまり、トレンドの微妙な変化は、予測可能性の行き詰まりによって生じる。「あー、このまま展開してサビね」という予測可能性をほんの少し出し抜く楽曲(近年、それを最も上手くやったのは米津玄師とOfficial髭男dismであった)を、人は求めずにはいられないのだ。

ここまでをまとめよう。

人の人生は行為で埋め尽くされている。アンチワーク哲学では、行為を引き起こす原因を十把一絡げに欲望と呼ぶ。そして、行為とは変化を引き起こすことを意味する。人は変化を引き起こすにあたって予測可能性の維持と拡大の両方を求める。「こうすれば、こうなる。じゃあ、ああすればああなるんじゃ?」といった具合である。

人を支配することも、手足をばたつかせることも、最新の音楽を追い求めることも、針穴に糸を通すことも、同じく予測可能性の維持と拡大である。

さて、安住の地で行為を繰り返すにせよ、拡大の冒険に出るにせよ、いずれにせよ人の24時間はなんらかの行為で埋め尽くされている。行為のエネルギー‥すなわち欲望は誰しもが平等に持っているのだ。パスカルの言うように人は部屋の中でじっとしてはいられない。となると、なんらかの欲望はなんらかの方向に向けられなければならない。

■欲望の優先順位を誰が決定するか?

さて、ここで1つの疑問が頭をよぎる。行為は全て欲望に基づくのであれば、金のために自ら望まない行為を行うこと(すなわち労働)は、どう解釈すべきなのだろうか?

アンチワーク哲学の解答は1つである。労働も全て欲望によって行われる、である。なぜなら、人が人をコントロールするのは究極的には不可能だからだ。僕が念じただけであなたの手を動かすことはできない。あなたの手を動かすには、必ずあなたの意志が介在する必要がある。故に、究極的には、彼が行為するなら、彼はその行為に同意しており、その行為を欲望していることになる。

欲望には優先順位がある。例えば僕が電車の中でエロ動画を観てオナニーしたくなったとしよう。しかし、その場でチンチンを放り出して擦り始めたなら、すぐさま誰かに通報され、オナニーどころではなくなる。だからこそ僕はオナニーしたいという欲望を保留し、電車に乗って家に帰る欲望を優先させる。より大きな欲望のために、別の欲望を用意し、後から大きな欲望を達成するプロセスを大人はすでに学んでいる。

一方で子どもは、いま目の前に現れた欲望を、そのままに追求する。イチゴが食べたいなら、イチゴに手を伸ばす。大人なら近くにある邪魔なコップをどかせてからとった方が効率的であると判断するが、子どもはそのままイチゴを取るという欲望を追求する。結果コップをひっくり返す。その失敗を繰り返した後で、イチゴを取る前に欲望の優先順位を切り替えた方が効率的であることを学ぶ。

金のためにやりたくない労働に取り組むのは、優先順位の切り替えによって説明できる。いま、家にこもってゼルダの伝説をプレイしたくても、そうすれば会社をクビになりゼルダの伝説どころではなくなることを考えて、人は定時まで労働を続ける。

では、労働とはなんの問題もない行為なのか? そうではない。アンチワーク哲学はその名の通り労働を批判し、欲望の徹底的な追求を推奨する。なら、アンチワーク哲学は、イチゴを食べるためにコップをどかすような行為すら否定するのだろうか? 世界中が手足をバタつかせるだけの赤ん坊で溢れかえればいいと主張しているのだろうか?

そうではない。アンチワーク哲学の問題意識は、欲望の優先順位の付け方に対する納得度に収斂する。

イチゴを食べるためにコップをどける行為に対して不満を抱く大人はいない。文章を書くためにパソコンを開いたり、部屋の電気をつけたりする行為に不満を抱く大人もいない。人は最終的な欲望の達成のために、下準備となる行為を欲望せざるを得ないわけだが、大人たちはこれに納得感を持って取り組む。

一方で、労働に関しては納得度は遥かに低い。生きるために労働しなければならない。しかし、できることならやりたくない。なぜやらなければならないのだ? そんな不満を抱きながら、人は渋々ながら労働を欲望せざるを得ない。

人が不満を抱くのは、欲望の優先順位の決定権が自分にないという感覚を抱くときである。

では、欲望の優先順位の決定権を奪われ続けるとどうなるのか?

1つは欲望の優先順位の決定権を奪われることそのものを欲望することである。ニーチェのいう畜群道徳とは、支配されることを欲望することを意味する。そうすることで、あくまで自分は支配されることを自ら選択しているのだという心の拠り所を得る。社畜とはこのような存在であると解釈すべきだろう。決して彼は資本家の言いなりになる機械ではない。彼は彼の意志で服従を欲望していると、納得しているのである。

もう1つは、どこか欲望の発散先を確保することである。自らの手で思う存分欲望を追求し、予測可能性が拡大していることを感じられる状況を、少しでも手に入れようとする。それは学校においては勉強にひたすら熱中することでもあり、風気委員として風紀の徹底を自らの手で執り行うことでもあり、弱い物いじめでもある。

学校ではあらゆる行為が禁止される。髪の毛を染めること。スカートを短くすること。禁止に歯向かうのでなければ、自らの欲望を自らの手で追求する手触りが失われる。弱いものイジメとは、その場で許されている予測可能性の拡大の数少ない選択肢の1つである。

大人の社会での権力闘争も、このように解釈できる。ヒエラルキーによって組織された会社では、欲望の優先順位を決定する権利は、全て上層部に握られる。奪い返すには、自分が権力を持つしかない。だから人は出世競争に精を出すのだ。

つまり、禁止が、欲望の優先順位の決定権を奪われることが、欲望を望まぬ方向へ溢れさせるトリガーとなっている。

■欲望の優先順位の決定権を取り戻す方法

ではここで、別のアプローチを考えたい。狭い水槽でしか魚同士のいじめが起こらないように、他者の支配へと人の欲望が向かうのは、それくらいしか許された欲望の解放先がないからである。他にもっと自由に欲望を追求できるのであれば、わざわざ他者の支配を欲望する者は少ないだろう。

あるいは支配に服する必要がないなら? 欲望の優先順位を決定されなくても、自由に生きる権利が与えられるなら。人を支配しようとする営みは徒労に終わるはずだ。

アンチワーク哲学は、金は支配のツールであると考える。金とは実質的に人に望まない行為を強制させるツールであり、権力そのものである。

金がなければ生きていけない。だから金を供給する側の命令を無視できない。人は金を得て生き延びることを最優先の欲望として設定するため、納得しないままでも、金を持つ者の命令に従う。

ベーシックインカムとは、全国民に最低限の権力を分配する営みである。それは、命令を拒否できるだけの最低限の権力である。上司や客の命令を無視してクビになっても、彼は生きていくことができるのだから。

つまりそれは欲望の優先順位を納得して決定するだけの権利を、彼が持つことを意味する。そしてBIは自由な欲望の追求を可能にする。そして彼の欲望が他者の支配に向いたとき、彼の欲望は挫かれる。なぜなら、他者は彼の支配を無視する権力を持っているからである。

とは言え、人の欲望はくじかれては妥協することを繰り返す。光速よりも早く移動できる人間は存在しない。試みては失敗して、人は不可能であるという予測を打ち立て、また別の欲望へ向かう。人の支配もいずれ、光速と同じスピードで動くことのように不可能な行為として、切り捨てられるだろう。

ベーシックインカムが十分に浸透した社会では、支配を望む人を見れば「あぁ、そんなことを望むバカな人もいたよね」と、さながら迷信に囚われた錬金術師のように、歴史の闇に葬り去られるのである。

こうして人は多様な欲望を追求する。子供に飯を食わせること。ゼルダの伝説をプレイすること。美しい庭を作ること。美味しい豆腐を作ること。予測可能な範囲で職人的に何かを行為する人もいれば、予測不可能な範囲へ次々に飛び込み、絆創膏まみれになる人もいる。

そこでようやく人は人の欲望の多様性に気づく。

もちろん、生きるために飯を食い、眠るという行為は、どんな社会になろうと強制的なものであり、僕たちはそこに優先順位を設定する必要がある。だが、その優先順位に不満を持つ者は稀である。飯を食わなければ死ぬが、飯を食うことを苦痛だと感じる人は少ない。納得感を持って取り組める。それと同じく、歯を磨くことも、誰かのために野菜を育てることも、水道工事をすることも、子どもを寝かしつけることも、半ば強制的な義務でありながら、納得感を持って取り組めるはずだ。もし、そこに優先順位を決定しようと命令する権力者がいないのなら

ではなぜ人の欲望の多様性に、人は気づいていないのか?

飯や女、権力や金以外のものは欲することがないように見なされるのか?

■支配と命令が人を怠惰とみなす

それは、支配と命令によってそうさせられたのである。

支配と命令とは、他者を強制的に奉仕させる行為である。自分が他者に飯を食わせるために、誰かに何かを強制する必要はない。単に与えればいいのである。しかし、他者に飯を作らせるなら、相手に行為させなければならない。

相手に行為させるには? 相手の欲望の優先順位の最上位に、自分に飯を作ることを持って来させなければならない。人に命令するには「そうしなければ死ぬ」に近い状況が必要である。相手の欲望の最上位を強制的に陣取るには、武器で脅すか、が必要である(租税貨幣論によれば、金が金たる所以は、暴力を背景に金を税として取り立てる国家が存在するからであった。つまり金とは暴力を後景に配置した命令の装置である)。

これは行為する側に不満を残す。本当は飯なんて作りたくないのに、やらざるを得ないという実感を残す。

そして、命令のデメリットは過小評価されている。人々は命令されようがされまいが同じ行為を行うなら大差ないと考える。しかし、アンチワーク哲学は、命令されているというだけで、もともとやりたい行為ですらやりたくなくなると主張する。これを命令による労働化と呼びたい。

「塩を取ってもらえますか?」と言われる場面と、「塩を取れ」と命令される場面を比較してほしい。同じ行為を行うとしても、命令されるかされないかによって全く異なる印象を抱くだろう。命令されて嫌な顔をする人を見て「彼は塩を取ることを嫌がる怠惰で不親切な人間である」と結論するなら、これほど的外れなことはない。彼は単に命令を嫌悪しているのである。塩を取ることなど彼にとっては造作もないのだから。

さて、人は命令によってそもそもやりたくないことをやらされたか、あるいはやりたかったことすらやりたくなくなったのか、おそらく両方の側面があるだろう。だが、そのきっかけとなったのは命令であり、他者の支配を好む権力者であることは明らかだ。

その手の実感が何度も繰り返されているうちに、恐らく人類社会は「飯を作るような貢献を、自ら欲望する者はいない」という価値観を育んでいった。

そして人の欲望とは、金や暴力を使って命令するような行為、すなわち飯を食うことやセックスすること、温かいベッドで寝ること、金銀で全身を飾り立てることだけに限られるのだとみなされた(パスカルは、王の衣装は人を労働させる力を持つことを顕示することでその威厳を保っているという旨のことを書いたが、パスカルは正しかった)。他者に命令する必要のない欲望は、視界の外に追いやられてしまったのだ。

しかし、実際のところこれまで何度も見てきたように人の欲望は多様である。支配関係から人が逃れれば、人は多様な欲望に向かう。生活や社会の維持に必要な労力すらも、人は納得感を持って欲望するはずである。

諸悪の根源は命令と支配にある。命令と支配が、人が何を欲望するのかを見えなくした。そして人が怠惰で利己的であるとみなした。だから、ベーシックインカムによって最低限の権力を万人に分配し、支配を終わらせることで、労働は労働ではなくなる。

労働とは、アンチワーク哲学に則れば「他者より強制される不愉快な営み」と定義される。なぜなら、労働が労働たる所以(労働が不愉快な所以)は、命令と支配にあるからである。

先述の通り、人は他者への貢献を欲望するが、強制されたならそれは不愉快な経験に変わる。自発的な欲望による貢献はむしろ快楽ですらある。「ライターを貸せ」と言われる経験は不愉快だが、「すみませんがライターを貸してくれませんか?」と言われて渡す経験にはほんのりと「いいことしたなぁ」という満足感があるのだ。結果として同じ行為をしていても、それが命令によるものかどうかによって感じ方はまるっきり異なる。強制的なセックスが苦痛であり、お互いの同意の上でのセックスが快楽であるのも同じように説明できる。

アンチワーク哲学が標榜する「労働なき世界」とは「強制なき世界」である。そのために必要なのがベーシックインカムである。ベーシックインカムによってあらゆる社会問題も解決に向かう。この世の問題の大半は、支配によって引き起こされているのだ。支配がなければ人は問題を解決していくものである。

ベーシックインカムについてはこちらを参照。

というのが、アンチワーク哲学の骨子である行為と欲望の考察である。

これを読んでもらえればアンチワーク哲学が決して「ベーシックインカムもらったら働かなくて済むじゃん!ウェイ」とか「もうさーAIが仕事すればいいじゃん!早くベーシックインカムくれよ!」とかそういう短絡的な発想ではないことがわかると思う。

※アンチワーク哲学への入門書はこちら

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