アンチワーク哲学【ホモ・ネーモ】

労働なき世界を目指すアンチワーク哲学について解説するブログです。

金のない世界は可能か?

金というものに対する考察をもう少し深めてみたいと思う。というのもアンチワーク哲学では、ベーシックインカムののちに金を撲滅することを目指しているが、BIに関する議論は盛んにおこなっているものの、金の撲滅についてはあまり語っていないからだ。

まず初めに断っておきたいのは、金を否定することと、金が生み出した果実を捨て去ることはイコールではないということだ。奴隷がつくったという理由でピラミッドを破壊する必要がないように(※)、金というシステムが生み出したMacBookや海底ケーブル、電波基地局、水道管を破壊する必要はない。金なくしてこれらのインフラは生み出されなかったが、だからといって金と一緒に捨て去る必要はないのである。

※ピラミッドは奴隷がつくったわけではないらしいが、あくまでたとえである。

金は様々な悲劇を生み出したが、同時に偉大な仕事を成し遂げた。だがいまや負の側面が大きくなり過ぎている。もう人類は金というツールに頼る必要はないのではないか? 新しい社会の組織化方法を考案してもいいのではないか? それは金が生み出した社会的な資本を維持管理しつつ、より人々の幸福に資する形で発展させられるのではないか? アンチワーク哲学が行うのは、そういう問いかけである。

■そもそも金とはなにか?

価値の貯蔵手段。価値尺度。交換手段。負債の数値化。他人同士がスムーズにやり取りするためのツール。様々な考え方があり、そのどれにも真実は含まれる。しかし、アンチワーク哲学は、その実質的な機能面からアプローチする。

金の機能は、二段階に分けられる。まず一次的には財やサービスを要求する力である。これは相手を半強制的に行為させるという意味で権力そのものである。

そして二次的な機能は、金の供給を采配する能力を持つ者たち(顧客、上司、社長、株主、政治家など)が得る、相手を命令に従わせる権力である。客を怒らせれば金を払ってくれなくなる。上司に嫌われれば出世の道が絶たれる。プロデューサーからの枕営業の誘いを断ればアイドルとして売れる(&金を稼ぐ)道が閉ざされる。パーティに参加して政治家に献金しなければ金稼ぎに不利な法令をつくられる。夫の元を離れれば生活費が足りない。こうしたメカニズムにより、金を持つ者や、金の采配に影響を与える者は、他者を命令に従わせる権力を持つ。

要するに一次的機能においても二次的機能においても、金は権力なのである。

■金が権力として機能するのはなぜか?

・権力の成立要件1/国家による暴力

歴史的に金とは負債であり、国家による発明品であった。誰かを神殿の作業に従事させる。その作業に対して一定の返礼を約束する証書。メソポタミアの銘版を調べたところそれが金の始まりであると考えられているらしい(このあたりはグレーバー『負債論』を参照)。そして、その証書はそのまま他者との取引に使用された。約束手形が流通するような感覚で、金は出回った。要するに借用証書だ。

詳しいことはわからないが、ここに暴力がなんの役割もはたしていなかったとは考えにくい。最初期の国家に暮らす農民たちは、ことあるごとに都市を抜け出し自由の荒野に駆けだそうとしていたことは、ジェームズ・C・スコットも口酸っぱく指摘する通りである(『反穀物の人類史』を参照)。国家は様々な為政術を考案し、失敗したことだろう。暴力で押さえつけ、なんとか労働に従事させたものの、すぐに逃げ出されたことも何度もあっただろう。あるとき国家は労働の対価を証書として与えてみた。すると、それは流通し、複雑な金融制度を生み出し、人々はその対価の獲得や返済に夢中になった。気づいたときには比較的暴力の行使をすることなく人々が都市の中にとどまり支配されていった。国家が暴力をふるうのは、その取引が円滑に行われないときだけで済んだ。支配者は天にも昇る快感を味わったことだろう。

鋳貨も暴力によって誕生した。鋳貨は遠征先で兵士たちを食わせるためのテクニックである。兵士たちにコインを持たせる。それで遠征先の人々に飯を提供させる。もちろん、そんなことをすれば「なんでそんなことをしなければならないんだ?」と人々が不満を口にすることになる。そこで暴力である。「コインは税として回収する。税金納めない奴はしばきな」と国家は宣言する。すると、人々はコインを夢中になって集めざるを得なくなる、というわけだ。もちろん、租税能力の背景には国家という暴力装置があり、現代においてもそれは変わらない。金を権力として成り立たせている基礎の一段目には、その支払いや流通を拒否した場合に動員される国家による暴力がある。

・権力の成立要件2/非自給自足的状況

さて、現代においては、国家による暴力だけではなく、単に金がないなら食っていけないという恐怖心によっても、金の権力としての側面を強めている。かつての農民たちは金がなくても生きていけた。しかし、現代の僕たちは金がなければ生きていけない。金を権力として成り立たせる基礎の二段目には、非自給自足的な状況が存在する。

それは歴史的には囲い込み都市化によって加速させられたはずだ。資本主義以前の社会にも金は存在したが、資本主義的な発展が生じなかった理由は、こうした説明が妥当であると僕は考える。資本主義以前の人々は金を追い求める理由はあったが、現代ほどに追い求める理由はなかった。だから、領主は農民たちを馬車馬のように働かせることはできなかった(マルクスは中世の農奴を「わきあいあいとしていた」と表現した)。自分たちが食べる分と領主の分を生産して、あとは祭りに終始していたのである。江戸時代の農民は領主に対してかなり強硬な態度をとっていた。それは、「逆らっても食っていける」「こいつらは自分たちがいなければなにもできない」という確信があったからだ。

つまり僕たちは、暴力と非自給自足的状況という二重の意味で金によって強制させられているのだ。

■金のデメリット

・強制によるモチベーションの低下

金による外発的な動機付けは人間のモチベーションや創造性を阻害する。これはビジネス書や心理学の入門書を読めばあちこちに書かれているのでいちいち参考文献を提示する必要もないだろう。アンダーマイニング効果とか自己決定理論といった言葉で検索すればいくらでも情報は出てくる。

アンチワーク哲学では、金がないと食っていけない僕たちは、金を得るために労働という強制に従わざるを得ないと考える。そして、上司や客、社長の不愉快な命令にも従わなければならない上、好きな時に辞めることもできない。それゆえに、人々は労働に不満を感じるのだ。これは金というシステムが生む根本的な欠陥の1つである。

・金の管理にまつわる膨大なコスト

聞きかじった話ではアメリカ人が税金の管理に費やす時間は、車の運転に費やす時間の倍にのぼるという(ソースは不明)。税金だけでこれなのだ。レジ。銀行。株式。債権。経理助成金の申請。決済システム。セキュリティ
。ATM。金にまつわるセミナーに参加する時間。預金通帳を見て頭を悩ませる時間。プライシングやマネタイズについて試行錯誤する時間。こうした活動に向けられるエネルギーはどれほどになるだろうか? 

ビットコインだけで先進国一国並みの環境負荷を与えているのだ。

掲載されている情報によれば、ビットコインの流通に伴って年間に排出される二酸化炭素(CO2)排出量は97.14Mt相当、電力消費量は204.50TWh、電子廃棄物量は25.65ktなどと見込まれている。

CO2排出量はクウェート、電力消費量はタイ、電子廃棄物量はオランダに、それぞれ相当する水準。

ビットコインによる年間の電力消費量は主要先進国並みに 拡大する市場の裏で高まる暗号資産の環境負荷

金全体が吐き出すコストはどれほどに上るか、想像もつかない。

もちろん環境負荷だけではなく、そこにはまぎれもなく人間の労働がつぎ込まれている。スーパーの業務のうち、値札貼りやレジ打ちはどれほどになるだろう。バーコードやレジをつくり、流通させるのにはどれくらい手間がかかってるだろう。会計システムやセキュリティ対策にはどれだけのエンジニアが情熱を注ぎこんでいるのだろう。考え始めればキリがない。金がなくなれば削減される労働がどれほどになるのか、誰か試算してくれないだろうか。

・金の追求のための不合理な行動

中国には投機目的で建てられた誰も住まないタワーマンションが膨大にあるという。合理的に考えれば、職がなく貧困に苦しむ若者のための住居づくりに向けられた方がいい労力は、誰も住まないタワーマンションに向けられたのだ。

それだけではない。保険請求のために車をわざと壊す。わざと床下にシロアリをまいて法外な値段のシロアリ防除費用をぼったくる。エコバッグブームに乗っかって色とりどりのエコバッグを買わせようとする。クリック率をあげるために広告詐欺をする。無意味だと理解しながらも金を払うクライアントや上司の理不尽な要求に従う。明らかに売れ残る服や恵方巻をつくる。金のために「なんでこんなことしてるんだ・・・」と感じる行為に手を染めたことのないサラリーマンは多くはないはずだ。先進国の40%近い労働がブルシット・ジョブと化しているという調査もある(グレーバー『ブルシット・ジョブ』を参照)。これらの大半も、金が原因となって生み出されている(金がなくても生きていけるなら、ブルシット・ジョブに取り組む人間など多くはないはずだ)。

それだけではない。「金のため」と割り切らなければ、誰がグローバルサウスの未就学児に強制労働をさせたいと思うだろうか? 先祖伝来の土地を追い出された農民の娘を14時間も工場に閉じ込めたいと思うだろうか? たとえそれが地球の裏側に暮らす見ず知らずの他人であろうが、そんなことをさせたくないと思うのが普通である。しかし、同時に金のためならそうするのが普通なのである。

■金のメリット

もちろん、金によって強制されているのでなければ、朝から晩まで半導体部品をハンダづけし続けるような仕事は誰もやりたがらない。そうして、資本主義的状況は、大量生産やグローバルサプライチェーンの形成を可能にした。1つの製品をつくるための労働はピンの先っぽをつくることだけに専念するようなつまらない仕事に分解され、全く見ず知らずの人々同士が連携し、取引し、結果的に複雑な製品を作る。それを可能にしたのは金の強制力である。だから金の最大の効用は、有無を言わさず他者を動員することで規模の経済を実現することであると、アンチワーク哲学では考える。

現代から金を引っこ抜くとき、最も懸念すべきデメリットはこの点である。他人同士のスムーズなやりとりや、それによって実現する規模の経済。こうしたものを抜きにして現代の高度テクノロジー社会を維持できるのか?という問題である。

■みんなちゃんと働くのか?

まず第一に確認しなければならないのは、金ナシでいま以上の社会を維持することは物理的には可能であるという点だ。金とは人間の貢献を組織化するメカニズムに過ぎない。全人類が、金抜きでもこれまでと全く同じかそれ以上の働きをすることに同意すれば、金抜きで社会を維持することは可能である。この点に反論することは不可能であるように思われる。

信用創造という言葉は、この事実を覆い隠す。あたかも金がなにかを生み出しているような見かけを演出するのだ。なにかを生み出しているのは常に人間である。金はそのきっかけに過ぎない。この点は金に関する議論をするときは頻繁に忘れられるので強調しすぎることはないだろう。

さて、それでは本当にそれが可能なのか?

まず金がない世界においては、先ほど挙げた3つのデメリットは消え去る。銀行や税金、レジ、会計といった労働に注がれていた資源と労力はそっくりそのまま節約できる。そして、金の追求のために行われていた不合理な行動も多くは消えていくだろう。

この時点でかなり人類全体にゆとりが生まれる。浮いた労働についていた人々はなにをしてもいいのだ。畑を耕す人もいれば、戯れに工場労働につこうとする人もいるだろう。あるいは日がな一日ゲームに没頭するかもしれない。だが、人を殺しはじめるのでもない限りマイナスになることはない(そして、犯罪の二大巨頭である略奪はそもそも消え失せる。すべてが無料なら略奪する必要がないからである)。

そして先述の通り、金からの解放は人間のモチベーションや創造力を解放することは学者たちが指摘する通りである。銀行や証券会社から解放されてまるっきり自由になった人だけではなく、もともと社会に必要な仕事についていた人々も、より創造性を発揮する可能性もある(そもそも彼らも領収書の管理や経費精算、家計管理といったわずらわしい業務から解放され、より創造性を発揮する時間を得られるのである)。

では、金の管理や支配から解放された人間はなにをするのだろうか?

結論から言えばわからない。それを予測できるのであれば、もうそれは支配されているのと同じだからである。だが、今より面白いことになる予感はしている。なぜなら人には、自分が世界に与える影響を増大しようとする力への意志成長欲が備わっているからだ。より創造性を発揮する方向へ、人々のエネルギーは向かうはずである。

そして、アンチワーク哲学が繰り返し主張するように、人には貢献欲が備わっている。人は他者への貢献を欲望する。困っている人を見れば助けたいと感じる。これは食欲同様の普遍的な欲望であると考えられる。ゆえに、金からの解放によって生じたトラブルを、人々は解決しようと努力すると考えるのはさほど突飛な発想でもあるまい。

■秩序は維持されるのか?

さて、すべてが無料だったなら、誰もが我先にと米やトイレットペーパーに群がり、大混乱が生じるのだろうか? そうならないと考える根拠は、現代における小規模な金のない世界において観察できる。

バイキング。公園の水道。牛丼屋の紅生姜。寿司屋の醤油。ファーストフード店の紙ナプキン。駅のトイレットペーパー。肉屋の牛脂。駅前で配られるティッシュレッドブル。こうしたものは無料だが、すべてを搔っ攫う人はいない(少なくともほとんどみかけない)。

冷静に考えればこれは偉業である。レッドブル配りの行列に100回も並ぶ人は一人や二人はいるかもしれない。だが、大半の人は「欲張ると恥ずかしい」「みんなの分だから自分が独占するわけにはいかない」という自制心を働かせ、足るを知るのである(そうでないなら、いつまでもレッドブル社があの活動を続けている理由が説明できない)。「人間は無限の欲望がある」「金がないとみんなわがままに振る舞う」的な言説のばかばかしさは明らかだろう。

そして、がめつく無料の製品を掻っ攫う少数の人々も、おそらくすべてが無料ならわざわざそんなことをする必要がないことを思い知るはずだ。いまは、無料のものが少ないから無料のものをありがたがっているだけなのである。

とはいえ、もちろん何が起きるかはわからない。大パニックになる可能性ゼロではない。ただし、人々の普段の振る舞いをみれば、そうなる可能性は低いように思われる。

■アンチワーク哲学の役割

そもそも「金は本当に人類に必要なのか?」といった問いを立てるのは前澤友作のような変人だけである。それもまともに議論されているとは言えない。それほどまでに金の存在は僕たちにとって空気のように当たり前のものになった。そして、そのメリットやデメリットについて真面目に考えることはほとんどない。たまにふらっと議論が行われたところで「金? 必要に決まっているだろ? どうやって他人と取引するんだ?」とか「金のない世界? じゃあお前パソコンも電気もない世界で狩猟採集生活をするんだな?」といった浅薄な議論で打ち切られるのである。

アンチワーク哲学は議論の深淵に踏み込もうとするだけではなく、議論の必要性を呼び起こすきっかけになる。そして、貢献欲や力への意志といった概念は、安心材料となる。もし「金がない社会は大パニックになる」と誰もが感じていたなら、実際に大パニックになる可能性が高い。しかし、「大丈夫だ、多くの人は信頼できるしちょっとくらいのトラブルなら乗り越えられる」と感じていたなら、成功する可能性が高まる。

人間はフラスコに入れられた微生物ではない。思考と議論が可能な自由な存在なのである。自分たちが思うように社会を創造することが可能なはずだ。

■まとめ

こんなに長く書くつもりはなかったが、以上がアンチワーク哲学によるお金の考察である。とはいえ、アンチワーク哲学では、お金をなくすより前にベーシックインカムの導入が必要であると考える。ベーシックインカムはお金の権力としての機能を骨抜きにし、お金の存在価値そのものにゆさぶりをかける。お金の正体に関するアンチワーク哲学の議論が真に意味を成し始めるのはその後だろう。100年後の経済学者がこの文章を発掘することを願うばかりである。